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甘露寺満子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
満子女王
北白川宮家、甘露寺家
続柄 北白川宮能久親王の第一王女

身位 女王降嫁
敬称 殿下 → 降嫁
出生 (1885-10-19) 1885年10月19日
日本の旗 日本
死去 (1975-07-16) 1975年7月16日(89歳没)
日本の旗 日本
配偶者 甘露寺受長伯爵
子女 一覧参照
父親 北白川宮能久親王
母親 申橋幸子
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甘露寺 満子(かんろじ みつこ、1885年明治18年)10月19日[1] - 1975年昭和50年)7月16日[2])は、日本の元皇族、甘露寺受長伯爵夫人。皇族時代の名と身位は満子女王

生涯

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北白川宮能久親王と側室の申橋幸子の娘として生まれる。1895年明治28年)10月28日、父能久親王と死別。

1904年(明治37年)1月12日、甘露寺義長伯爵の嗣子甘露寺受長との結婚の勅許が下りた[3]。翌月には日露戦争が開戦する事態となった。同年11月14日、甘露寺受長に降嫁[4]

義弟甘露寺方房の妻澄子が早世した際には、京都旅行の思い出と共に次の和歌を詠んで澄子を偲んだ[5]

誰もみなやさしき君としのぶ草 涙のあめに色やそふらむ

『澄子』 p.173

1937年(昭和12年)には、嗣子忠長が早世した。

血縁

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昭和初期撮影、甘露寺受長伯爵一家(前列右が満子)

参考文献

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  • 沢田美喜子 編『澄子』甘露寺方房、1938年。全国書誌番号:44042479 

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 『纂輯御系圖』(松成堂、1903年)、p.201(NDLJP:1085748/120
  2. ^ 平成新修旧華族家系大成 上巻』(霞会館、1996年)p.477
  3. ^ 『官報』第6157号「宮廷録事」、明治37年1月13日(NDLJP:2949468/18
  4. ^ 明治37年宮内省告示第17号(『官報』号外、明治37年11月14日)(NDLJP:2949737/18
  5. ^ 『澄子』 p.172-173
  6. ^ a b c d 『人事興信録』第8版(1928年7月)、「甘露寺受長」の項
  7. ^ 『官報』第3070号「彙報」、昭和12年3月30日(NDLJP:2959553/9