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田中次郎 (技術者)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
田中次郎
キ74の前に立つ田中次郎
生誕 1917年1月19日
東京都渋谷区
死没 (2017-09-28) 2017年9月28日(100歳没)
国籍 日本の旗 日本
教育 東京工業大学
業績
勤務先 立川飛行機
陸軍
プリンス自動車工業
日産自動車
日産ディーゼル工業
設計
受賞歴 日本自動車殿堂(2008年)
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田中 次郎 (たなか じろう、1917年大正6年〉1月19日 - 2017年平成29年〉9月28日[要出典])は、日本の航空機・自動車技術者。

概要

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立川飛行機入社後、陸軍に入隊し、陸軍機の各種エンジン評価を担当。1944年(昭和19年)から、軍籍のまま元の勤務先の立川飛行機にて、試作遠距離偵察爆撃機キ74与圧室装備等の設計仕上げを担当。戦後、米軍にキ74キ77を引き渡すための修理・整備を行う。

その後、立川飛行機から分離した東京電気自動車(後のたま電気自動車→たま自動車→プリンス自動車工業)にて電気自動車、そしてガソリン自動車の開発に従事する。

日産自動車と合併後、同社役員を経て、日産ディーゼル工業副社長を歴任し、1986年(昭和61年)、同社を顧問で退社。2008年(平成20年)、日本自動車殿堂入り。

略歴

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  • 1917(大正6年)1月19日 - 東京に生まれる
  • 1939年(昭和14年)3月 - 東京工業大学機械工学科卒業
  • 1939年(昭和14年)
    • 4月 - 立川飛行機株式会社入社
    • 10月 - 陸軍第一期技術候補生(短現)入隊
  • 1940年(昭和15年)2月 - 陸軍中尉 陸軍航空技術研究所
  • 1947年(昭和22年)6月 - 東京電気自動車株式会社の分離設立により移籍
  • 1952年(昭和27年)11月 - プリンス自動車工業株式会社〔旧〕と改称
  • 1953年(昭和28年)7月 - 同社技術部長
  • 1954年(昭和29年)4月 - 富士精密工業株式会社に合併
  • 1958年(昭和33年)4月 - 自動車技術会賞受賞
  • 1959年(昭和34年)9月 - 同社技術本部研究部長
  • 1961年(昭和36年)2月 - プリンス自動車工業株式会社〔新〕と改称(旧社名に戻す)
  • 1962年(昭和37年)12月 - 同社設計部長
  • 1966年(昭和41年)8月 - 日産自動車株式会社と合併。同社プリンス事業部第一車両技術部長
  • 1969年(昭和44年)11月 - 同社取締役就任
  • 1972年(昭和47年) - 自動車技術会担当理事。自動車工学便覧編集委員長
  • 1977年(昭和52年)6月 - 同社常務取締役就任
  • 1979年(昭和54年)6月 - 同社専務取締役就任
  • 1983年(昭和58年)6月 - 日産自動車株式会社退社。日産ディーゼル工業株式会社 代表取締役副社長就任
  • 1985年(昭和60年)6月 - 日産ディーゼル工業株式会社取締役退任、顧問に就任
  • 2017年11月までに亡くなった[1]

参考文献

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関連項目

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  • 中川良一 - 1954年(昭和29年)4月のプリンス自動車工業(旧)・富士精密工業合併時以降、日産時代までの田中の上司。
  • 伊藤修令 - 1959年(昭和34年)4月に富士精密工業に入社して以来、プリンス自動車工業(新)時代に最も影響を受けた人物として、田中と桜井眞一郎の名を挙げている[2]

出典

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  1. ^ 文化の発展に貢献した歴史に残すべきクルマは?…日本自動車殿堂が歴史遺産車を発表”. CAR CARE PLUS (2017年11月17日). 2023年7月22日閲覧。
  2. ^ 伊藤修令著 『走りの追求 - R32スカイラインGT-Rの開発』 P11 2005年4月18日 グランプリ出版刊 ISBN 4-87687-270-8

外部リンク

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