田中澤二
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田中 澤二(たなか たくじ、田中 沢二、1887年4月27日[1] - 1955年3月15日[2])は、明治期末期から昭和にかけての政治活動家。父は田中智學。
東京府東京市浅草北三筋町(現・東京都台東区三筋)出身[1]。幼時から、宗教家であった父の影響で日蓮主義の教育を受ける。20代で政治を志し、1922年に立憲養正會を立ち上げ、1923年田中智學を総理にし、自らは代行者として同会を運営。政治進出は時期尚早と父に諭され、総理代行を辞任。1928年に第16回衆議院議員総選挙に出馬するも落選。同年、同会機関紙『養正時評』を刊行。1929年立憲養正會総裁に就任。1930年の第17回衆議院議員総選挙にも出馬したが再度落選[1]。国体主義を主張して、1934年には会員数も10万人を数え、「昭和22年立憲養正會内閣の成立」を訴えた。その後、満州にも支部を置き、対英戦争を主張。1942年同会は言論、出版、集会、結社等臨時取締法により解散させられ、1946年に同会を復興させるも、公職追放により総裁になれなかった。1951年に公職追放が解かれ、総裁に復帰したが、1955年に逝去。
主著
[編集]- 『日本改造の具體案』(らんせん荘, 1928年初版・1940年第4版)
- 『鏗爾録』(らんせん荘, 1932年)
- 『軍人ト政治ノ問題 : 軍人勅諭の中「政治ニ拘ラズ」の正體を發表す』(立憲養正會, 1933年)
- 『天皇仰慕』(養正時評社書籍部, 1934年)