田中萃一郎
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人物情報 | |
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生誕 |
1873年3月7日 日本静岡県 |
死没 | 1923年8月13日 (50歳没) |
出身校 | 慶應義塾大学部文学科 |
学問 | |
研究分野 | 東洋史(近世中国史) |
田中 萃一郎(たなか すいいちろう、明治6年(1873年)3月7日 - 大正12年(1923年)8月13日)は、大正期の歴史学者、東洋史学者、法学博士。日本における東洋学の草分けで、専門は近世中国研究。
経歴
[編集]静岡県田方郡大竹村(現函南町)で、後に衆議院議員を務めた田中鳥雄の長男として生まれる[1]。
明治25年(1892年)、慶應義塾大学部文学科を卒業[1]。在学中はドイツ人のお雇い外国人・ルートヴィヒ・リースに師事。卒業後、静岡県伊豆学校(現在の静岡県立韮山高等学校)校長となり、その間に『東方近世史』を執筆。明治38年(1905年)からイギリス、ドイツ、フランスに留学し、ライプツィヒ大学で高名なカール・ゴットハルト・ランプレヒト(英語: Karl_Lamprecht)博士に師事し、研究を開始。明治40年(1907年)帰国後、慶應義塾大学部文学科教授に就任し[1]、明治43年(1910年)文学科に史学専攻を創設するにあたり、中国の史書を積極的に取り入れて、中国と西洋の史学比較研究を通じて近代歴史学を構築。
大正8年(1919年)に法学博士となり、三田史学会を創設。大学で東洋史を教授し、大正10年(1921年)には東京商科大学で国家学概論も担当した。大正12年(1923年)、新潟県の瀬波温泉で海水浴中に脳溢血のため早世した[1][2]。一部の著作は東洋文庫に保管されている。
著書
[編集]- 『東方(邦)近世史』
- 『伊豆人物史』
- 『元の官吏登席法』
- 『義荘の研究』
- 『田中萃一郎史學論文集』
訳書
[編集]- 『蒙古史』
- 『歴史哲学』