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田丸秀治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
たまる ひではる

田丸 秀治
生誕 (1914-04-20) 1914年4月20日
鹿児島県鹿児島市
死没 (1990-01-25) 1990年1月25日(75歳没)
東京都新宿区河田町
死因 結腸癌
住居 東京都小金井市東町
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京帝国大学文学部
職業 実業家
活動期間 1948年 - 1990年
肩書き 電通相談役
任期 電通代表取締役社長(1977年 - 1985年)
前任者 中畑義愛
後任者 木暮剛平
取締役会 電通
配偶者 田丸扶佐子(妻)
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田丸 秀治(たまる ひではる、1914年4月20日 - 1990年1月25日)は電通代表取締役相談役日本広告業協会理事長東京商工会議所広報委員長。通称:マルさん鹿児島県鹿児島市出身。

経歴

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鹿児島県立第一鹿児島中学校 (旧制)第七高等学校造士館 (旧制)を経て[1]1938年東京帝国大学文学部を卒業。旧制中学校の教諭を経て、1948年日本電報通信社に入社。1967年電通常務取締役に就任。その後、専務取締役を経て、1977年代表取締役社長に就任。同時に吉田秀雄記念事業財団の理事長にもなる。アメリカの広告会社との合併による国際事業の展開、総合コミにケーション産業への業務領域拡大などを実現。1985年代表取締役相談役に退く。それ以外にも日本経営者団体連盟常任理事経済同友会幹事を歴任。

1990年1月25日午後6時27分に結腸癌の為、東京女子医科大学病院で死亡[2][3]

受賞歴

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出典・参考文献

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  • 『現代物故者事典〈1988~1990〉』日外アソシエーツ、1993年8月、406頁。ISBN 978-4-8169-1178-1 

脚注

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  1. ^ 『鹿児島大百科事典』(1981年 南日本新聞社)「田丸秀治」
  2. ^ 「日本広告業協会会長 田丸秀治氏死去」 読売新聞1990年1月26日朝刊31面
  3. ^ 「世界一の広告会社育成 田丸前電通社長死去」 毎日新聞1990年1月26日朝刊27面