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田幡城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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田幡城
愛知県
田幡城の址に建つ名古屋市立金城小学校(2013年9月)
田幡城の址に建つ名古屋市立金城小学校(2013年9月)
別名 狩宿城[1]
築城主 越智信高[1]
築城年 天文年間[1]
主な城主 越智信高[1]
廃城年 1556年[1]
遺構 金城小学校校庭に「林泉寺跡・旧田幡城跡」の石碑が残るのみ[1]
指定文化財 未指定
位置 北緯35度11分45.5秒 東経136度54分22.2秒 / 北緯35.195972度 東経136.906167度 / 35.195972; 136.906167座標: 北緯35度11分45.5秒 東経136度54分22.2秒 / 北緯35.195972度 東経136.906167度 / 35.195972; 136.906167
地図
田幡城の位置(愛知県内)
田幡城
田幡城
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田幡城(たばたじょう)は、尾張国春日井郡田幡村(現愛知県名古屋市北区金城三丁目)にあった日本の城

概要

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田幡に残る箕浦姓の例

詳細な築城年は不明だが、天文年間に越智信高が清洲城の前衛基地として築城したものとみられる[1]。越智氏は伊予国越智郡を発祥とする一族で、美濃国安八郡林村に遷ったのち、さらに当地に至ったものとみられ、林氏とも称していたという[1]。別名に「狩宿城」があり、この名は現在の尾張旭市狩宿町にあった狩宿村に由来するといい、信高の子である林弥助の代に当地から狩宿村まで支配が及んだことからそう称されたという[2]。しかし、狩宿村に弥助の支配が及んだことは『張州雑志』の記述[3]により間違いないが、弥助の子であり織田家の重臣であった林通勝の代に織田家より戦功などにより支配を任されたものとみたほうが自然であるとする説もある[1]。また、『北区誌』では越智氏が狩宿に移り、林氏となったこと自体を誤りであるとしている[4]

城は稲生の戦いの後に廃城となり、跡地に名古屋市立金城小学校が建っており[2]埋蔵文化財包蔵地としては遺跡番号002021として周知されているが[5]、地表上での遺構は残っていない[1]。ただし、城屋敷なる地名が残り、田幡町に多くみられた箕浦・小川姓はみな、信高の家老の末裔であると言い伝えられてきたという[6]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j 笹山忠『尾張の古城 全三四〇城を訪ねて』2008年8月、6頁。 
  2. ^ a b 『日本城郭大系 9 静岡・愛知・岐阜』新人物往来社、1979年6月、292頁。 
  3. ^ 「狩宿村の古城は林弥助のもので、弥助は越智右馬允信高の子である」という記述。また、『角川日本地名大辞典 23 愛知県』441頁「狩宿」項には狩宿の集落のはずれに林弥助の居城があったともある。
  4. ^ 北区制50周年記念事業実行委員会(編)『北区誌』北区制50周年記念事業実行委員会、1994年2月11日、114頁。 ただし、根拠は不明。
  5. ^ 「マップあいち(愛知県統合型地理情報システム)」愛知県公式HP
  6. ^ 『西春日井郡誌』650頁。ただし、『北区誌』1994年版114頁では同様の記述を『尾張志』から、『北区誌』1964年版59頁では『塩尻』から引用している。『愛知県地名収攬』273頁の田幡村の項には「城屋敷」なる字はなく、明治以前の話である可能性がある。

参考文献

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  • 『日本城郭大系 9 静岡・愛知・岐阜』新人物往来社、1979年6月。 
  • 笹山忠『尾張の古城 全三四〇城を訪ねて』2008年8月。 
  • 北区制50周年記念事業実行委員会(編)『北区誌』北区制50周年記念事業実行委員会、1994年2月11日。 
  • 北区役所教育課(編)『北区誌』北区役所総務課、1964年。 
  • 西春日井郡(編)『西春日井郡誌』西春日井郡、1923年3月。 
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典 23 愛知県』角川書店、1989年。ISBN 4-04-001230-5 
  • 『地名学選書 愛知県地名集覧(原題)明治十五年愛知県郡町村字名調』1932年愛知県教育会刊、日本地名学研究所(1969年5月30日)復刻