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田戎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

田 戎(でん じゅう、? - 36年)は、中国代から後漢時代初期にかけての武将。豫州汝南郡西平県の人。義父は秦豊。義兄弟は延岑。妻の兄は辛臣。

事跡

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夷陵の支配者

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姓名 田戎
時代 代 - 後漢時代
生没年 生年不詳 - 36年建武12年)
字・別号 不詳
本貫・出身地等 豫州汝南郡西平県
職官 掃地大将軍〔自称〕
爵位・号等 (周成王〔自称〕?)→翼江王〔成家〕
陣営・所属等 〔独立勢力〕→秦豊公孫述
家族・一族 義兄(妻の兄):辛臣

義父:秦豊 義兄弟:延岑

夷陵(南郡)を根拠地とした新末後漢初の群雄の一人で、後に蜀(成家)の公孫述の部将となった人物。最初は、同郷の陳義と共に夷陵へ赴き、群盗を働いていた。更始元年(23年)には、田戎・陳義は夷陵を攻め陥とし、田戎は掃地大将軍を、陳義は黎丘大将軍をそれぞれ自称した[1]。その後、田戎は各郡県を攻略し、数万人の軍勢を率いた。

建武3年(27年)7月、漢の征南大将軍岑彭が楚黎王秦豊を黎丘郷(南郡邔県)に包囲すると、妻の兄の辛臣の諌めにもかかわらず、田戎は漢に降ることを決める。建武4年(28年)春、田戎は辛臣に夷陵の留守を任せ、黎丘郷へ向かい、期日を定めて漢に降ろうとした。ところが辛臣が変心し、田戎の宝を盗んだ上で夷陵から逃亡して漢に降り、あわせて書面を田戎に送って降伏を勧める。辛臣が自分を売ったに違いないと疑った田戎は、結局漢への降伏を取りやめて、秦豊へ付くことにした[2]。その後、時期は不明だが、田戎は、漢中から南陽へ逃れてきた当時の群雄の一人の延岑と共に、秦豊の娘を妻としている。

しかし田戎は岑彭との戦いで敗北して、その部将の伍公は漢に降伏し、田戎は夷陵へ撤退した。建武5年(29年)になると、秦豊が弱体化したために、岑彭率いる南征軍主力の矛先は田戎に向けられるようになった。同年3月、田戎は岑彭と津郷(南郡江陵県)で戦って敗北する。さらに岑彭に夷陵を攻略され、逃走先の秭帰(南郡)でも追撃を受ける。結局、田戎はわずか数十騎で蜀に逃れ、その妻子と数万の軍勢は尽く漢軍に鹵獲されてしまった。また、秦豊も同年6月に滅亡している。

公孫述の部将として

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延岑と共に蜀の公孫述に降った田戎は、翼江王に封じられている。建武6年(30年)、公孫述の配下騎馬都尉荊邯は延岑・田戎をして二方向からの進撃を奏上し、延岑・田戎も逸る。しかし周囲が止め、また公孫述自身も延岑・田戎に猜疑心を抱いたため、漢への攻撃は取り止めた。ただ、この年には、田戎は公孫述の命により、将軍任満と共に江関(南郡巫県白帝城の対岸)へ出撃して、臨沮(南郡)・夷陵の間へ下り、旧部下を集めて荊州諸郡を攻略しようとしている。しかし、これは失敗に終わった。

建武9年(33年)3月、公孫述の命により、大司徒任満・南郡太守程汎と共に江関へ出撃して、漢の威虜将軍馮駿らを撃破し、巫・夷陵・夷道(南郡)を攻略した。その後、田戎らは荊門山・虎牙山(南郡夷陵県)を守備する。しかし、建武11年(35年)閏月、岑彭を荊門山で迎撃したが敗北し、任満は部下に殺され、程汎は生け捕られ、田戎は江関[3]へ敗走した。さらに、追撃してきた馮駿に江関を包囲され、建武12年(36年)7月、江関は陥落して田戎は処刑されてしまう。

脚注

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  1. ^ 後漢書』岑彭伝注『襄陽耆旧記』によると、田戎は周成王、陳義は臨江王をそれぞれ自称したとしている。また陳義は、その後の事跡について史書に記載が見当たらない。
  2. ^ 『後漢書』岑彭伝注『東観漢記』によると、期日が来て田戎が亀甲占いをしたところ、凶と出たため、降伏を取りやめたとしている。
  3. ^ 『後漢書』岑彭伝の原文は江州(巴郡)だが、校勘記の指摘に従い江関に修正する。

参考文献

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  • 後漢書』列伝3公孫述伝
  • 同列伝7岑彭伝
  • 同本紀1上光武帝紀上
  • 同本紀1下光武帝紀下
  • 同志10天文上

関連項目

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