田村憲造
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田村 憲造 | |
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生誕 |
1889年2月18日 愛知県渥美郡二川村 |
死没 |
1953年8月19日(64歳没) 東京都大田区山王 |
国籍 | 日本 |
研究分野 | 薬理学 |
研究機関 | 東京帝国大学 |
出身校 | 東京帝国大学 |
博士課程 指導教員 | 林春雄 |
主な業績 | 強心剤の研究 |
主な受賞歴 | 学士院賞 |
プロジェクト:人物伝 |
田村 憲造(たむら けんぞう、1889年(明治22年)2月18日 - 1953年(昭和28年)8月19日)は、日本の医学者、薬理学者。医学博士、東京帝国大学名誉教授。
略歴
[編集]1889年(明治22年)2月18日、愛知県渥美郡二川村で米穀商「駒屋」を営む旧家に生まれる[1]。小学校を卒業後は上京して獨逸学協会学校、旧制第一高等学校へ進む[2]。東京帝国大学医科大学医学科へ入学し、第3年以降は特待生となる[3][4][5]が、卒業は1年遅れた[6]。1941年1月に軽い脳卒中発作を起こし、疎開がてら郷里に戻って療養生活を送った[2]。1953年8月19日午後7時40分肺炎のため死去[7]。
- 1915年(大正4年)7月9日 - 東京帝国大学医科大学医学科を優等生(医科大学次席)として卒業し[8][9]、大学院に在籍[10][11]
- 1917年(大正6年) - 東京帝国大学医科大学助手[12]
- 1920年(大正9年)3月 - アメリカ合衆国、フランス、スイスへ海外留学(1年間)[13]
- 1921年(大正10年)
- 1924年(大正13年)2月19日 - 同教授(薬物学第一講座)[16]
- 1945年(昭和20年)12月19日 - 病気[12]により退官[17]
- 1947年(昭和22年)2月4日 - 名誉教授[18]
- 1950年(昭和25年)10月6日 - 学士院会員[19]
業績
[編集]主な業績は以下の通り[13]。
受賞・顕彰
[編集]家族・親族
[編集]子に4男3女あり[13]。長男は薬学者の田村善藏。次男は農芸化学者の田村学造であり、親子2代で学士院賞を受賞し、かつ学士院会員となっている。長女の八重は物理学者の小谷正雄と結婚し、化学者の小谷正博は孫。
参考文献
[編集]- ^ “商家「駒屋」田村家の歴史”. 豊橋市二川宿本陣資料館. 2019年9月12日閲覧。
- ^ a b 『郷土豊橋を築いた先覚者たち』豊橋市教育委員会、1986年、176-177頁。 NCID BN0033611X 。
- ^ NDLJP:813187/257
- ^ NDLJP:940163/256
- ^ NDLJP:940164/258
- ^ NDLJP:940165/257
- ^ 「田村 憲造氏」『朝日新聞』1953年8月20日、夕刊3面。
- ^ NDLJP:940166/319
- ^ 「大学行幸 卒業式の光栄」『朝日新聞』1915年7月10日、朝刊5面。
- ^ NDLJP:940166/249
- ^ NDLJP:940169/275
- ^ a b 『事典 日本の科学者』日外アソシエーツ、2014年、507頁。
- ^ a b c 勝沼精蔵 著「田村憲造 会員」、日本学士院 編『学問の山なみ:物故会員追悼集』 第3、日本学士院、1980年、235-237頁。
- ^ NDLJP:2954949/5
- ^ 東京帝国大学助手田村憲造外十三名任官並官等陞叙ノ件 - 国立公文書館デジタルアーカイブ
- ^ NDLJP:1448364/186
- ^ 高等官進退(東京帝大 田村憲造外2名)本官を免ず - 国立公文書館デジタルアーカイブ
- ^ 名誉教授(東京帝大 田村憲造)名誉教授の名称を授与 - 国立公文書館デジタルアーカイブ
- ^ “物故会員一覧 (50音順) タ行”. 日本学士院. 2019年9月11日閲覧。
- ^ “「報公賞」歴代授賞者および授賞の業績” (pdf). 服部報公会. 2019年9月11日閲覧。
- ^ “恩賜賞・日本学士院賞・日本学士院エジンバラ公賞授賞一覧”. 日本学士院. 2019年9月11日閲覧。