田相国
田相国 | |
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生誕 |
1907年12月22日[1] 大韓帝国黄海道信川郡 |
死没 |
1938年8月21日(30歳没) 中華民国湖北省宜昌 |
所属組織 | 中華民国空軍 |
軍歴 | 1931-1938 |
最終階級 | 上尉 |
墓所 | 航空烈士公墓 |
田 相国(田相國、朝鮮語:チョン・サングク、전상국、中国語:ティエン・シャングオ)は中華民国空軍の軍人。別名は李相國。朝鮮出身の抗日航空烈士。
経歴
[編集]1907年、黄海道信川郡斗羅面に生まれる。1927年(昭和2年)5月1日、日本飛行学校に入学[2]。卒業後同校で助教官を務める[3]。
1929年(昭和4年)6月26日午前9時頃、二等飛行士受験準備のため、立川飛行場で甲式三型(ニューボール式24型、ローン式80馬力装備)J-TEIOで練習飛行中、発動機故障により付近の桑畑に不時着して転覆し、機体が大破、田相国は右腕その他に打撲傷を負った[4]。
1929年10月、二等飛行機操縦士技倆証明書交付[5]。
1929年11月3日、代々木練兵場で行われた第5回飛行機操縦士競技大会で5等となり、賞金5百円が贈られた[6]。
1930年(昭和5年)1月、二等飛行機操縦士免状交付[7]。
中国へ亡命して中国籍(江蘇省江寧県)を取得した。その後中国中央航空学校の教官を務めていたが、1931年に中国空軍に入隊。1932年2月26日、杭州迎撃戦で負傷した石邦藩(航空第2隊隊長)の止血処置をした[8]。1934年、中央航空学校第2期高級班卒業。冷静沈着で果敢であり、剿匪や西安事件などで出動した[9]。1935年(民国24年)9月7日、空軍中尉任官[10]。1936年、朝鮮民族革命党に加入。同年11月1日、南昌で空軍第1大隊(大隊長:邢剷非)が編成され、隷下の第1隊(隊長:李賜禎)副隊長[11]。1937年9月7日、空軍上尉[12]。
日中戦争勃発時は第1大隊第1中隊(隊長:李賜禎上尉)副中隊長、のちに中隊長。戦争初期に17回の輸送任務と15回の爆撃任務を完遂した。
1938年8月、漢口から成都へ移動する途中でモーターの故障により湖北省宜昌南沱江に墜落して死亡する[9]。
脚注
[編集]- ^ “[겨레렬사비5]겨레 항일항공렬사 전상국”. 吉林新聞. (2017年3月7日) 2017年9月18日閲覧。
- ^ “中 청두시 ‘외국인 항일열사 추모전’에 韓人 전투비행사 2명 포함”. 東亜日報. (2015年5月26日) 2016年1月19日閲覧。
- ^ 佐藤一一『日本民間航空通史』、85頁。
- ^ 野沢正 編『航空事故:写真記録』出版協同社、1961年、39頁。
- ^ 官報 1929年10月11日8コマ
- ^ 『航空事情 62』航空会、1929年、73頁。
- ^ 官報 1930年01月21日13コマ
- ^ 中山雅洋『中国的天空 上巻』大日本絵画、2007年、98頁。
- ^ a b 盧克彰編著 (1974). 空軍建軍史話. 空軍總部政治作戰部. pp. 225
- ^ “国民政府広報第1840号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2016年6月3日閲覧。
- ^ 盧克彰編著 (1974). 空軍建軍史話. 空軍總部政治作戰部. pp. 66
- ^ “国民政府広報第2452号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2017年10月1日閲覧。
参考
[編集]“중국에서 본 한국인 묘, 비석에 새긴 이름 읽는 순간”. オーマイニュース. (2015年5月29日) 2015年7月10日閲覧。
外部リンク
[編集]- “中央航空学校同学録-田相国” (中国語). 浙江档案网. 2016年12月17日閲覧。