田部辰
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名前 | ||||||
カタカナ | タナベ ノブル[1] | |||||
ラテン文字 | TANABE Noburu | |||||
基本情報 | ||||||
生年月日 | 1904年2月20日[2] | |||||
出身地 | 大日本帝国・広島県 | |||||
没年月日 |
1994年2月9日(89歳没)[1] 日本・広島市西区 | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
広島県立広島第一中学校 | ||||||
19xx-1931 | 東京工業大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1924-1925 | 鯉城蹴球団 | |||||
代表歴 | ||||||
1923 | 日本 | 0 | (0) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
田部 辰(たなべ のぶる、1904年2月20日 - 1994年2月9日 )は、広島県出身のサッカー選手、サッカー指導者。
来歴
[編集]広島県立広島第一中学校(現:広島県立広島国泰寺高等学校)を卒業後、東京工業大学応用科学科に入学[2]。また、広島一中出身者で組織された鯉城蹴球団にも所属し、1923年5月に開催された第6回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出されたが、出場機会は無かった[3]。
また、鯉城蹴球団 (鯉城クラブ) のフォワードとして清水直右衛門や深山静夫、香川幸らと共に1924年の第1回明治神宮競技大会兼ア式蹴球全國優勝競技會(第4回天皇杯全日本サッカー選手権大会)および1925年の第2回明治神宮競技大会兼ア式蹴球全國優勝競技會(第5回天皇杯全日本サッカー選手権大会と2年連続での優勝に貢献した。
1932年3月に大学を卒業。1935年6月に徳山曹達(現:トクヤマ)に入社。以降累進して1949年11月に徳山曹達の取締役(技術担当)に就任し、1960年9月まで務めた[2]。
1994年2月9日、広島市西区庚午において老衰により死去した[1]。
所属クラブ
[編集]- 広島県立広島第一中学校(現:広島県立広島国泰寺高等学校)
- 東京工業大学
- 鯉城蹴球団
代表歴
[編集]出場大会
[編集]試合数
[編集]- 国際Aマッチ 0試合 0得点
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1930 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
通算 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |