畑勇三郎
畑 勇三郎(はた ゆうざぶろう、1890年(明治23年)2月17日[1][2] - 1970年(昭和45年)11月25日[1][注 1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
経歴
[編集]東京府出身[1][2][3]。1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業[1][2][4]。同年12月、砲兵少尉に任官し重砲兵第6連隊付となる[1][4]。1914年(大正3年)11月、陸軍砲工学校高等科(第20期)を卒業[1]。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を卒業し野戦重砲兵第6連隊中隊長に就任[1][2][3]。
1922年(大正11年)12月、陸軍重砲兵学校教官となり、アメリカ駐在に転じ、1926年(大正15年)8月、砲兵少佐に昇進[1]。1928年(昭和3年)8月、重砲兵学校教官となり、陸大教官を務め、1930年(昭和5年)8月、砲兵中佐、1934年(昭和9年)8月、砲兵大佐に昇進[3][3]。同年12月、野砲兵第22連隊長に就任し、重砲兵学校研究部主事を経て、1937年(昭和12年)9月、第13師団参謀長に発令され日中戦争に出征[1][2][3]。1938年(昭和13年)3月、重砲兵学校幹事に転じ、同年7月、陸軍少将に進級し砲兵監部付となる[1][2][3]。
1939年(昭和14年)3月、野戦重砲兵第3旅団長に発令されノモンハン事件に出動した[1][2][3]。同年11月、関東軍司令部付となり、参謀本部付を経て、1940年(昭和15年)1月、予備役に編入された[2][3]。
1940年(昭和15年)4月、満州国三江省次長に就任[1]。1942年(昭和17年)1月、東安省長に転じた[1]。1944年(昭和19年)7月に召集され、広島軍需輸送統制部長に就任し[2][3]、1945年(昭和20年)5月、船舶司令部広島支部長に転じ終戦を迎えた[3]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]。
栄典
[編集]- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[6]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『日本陸軍将官辞典』578頁では11月26日。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。