留守第54師団
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留守第54師団(るすだいごじゅうよんしだん)は、1943年2月から1945年3月まで置かれた留守師団で、地域防衛と徴兵・訓練などに携わった大日本帝国陸軍の部隊である。はじめ姫路師管、1945年に長野師管を管轄した。長野師管区部隊の発足とともに廃止になった。
姫路師管で編成
[編集]近畿地方西部と中国地方東部を範囲とする姫路師管は、1940年に作られた第54師団の管区であった[1]。留守第54師団は、1943年2月17日の昭和18年軍令甲第17号で臨時編成された[2]。南西方面に派遣される第54師団の代わりに、姫路師管の防衛と管区業務にあたるためである[3]。部隊名は第54師団に由来するが、別の師団長と別の指揮系統を持つ別部隊である。上級部隊は中部軍管区を管轄する中部軍であった。
長野師管に移転し、師管区部隊に転換
[編集]姫路師管は1945年1月22日制定(24日公布)の昭和20年軍令陸第1号による陸軍管区表改定によって、2月11日に廃止された[4]。同時に新設されたのが長野師管で、留守第54師団は移動して東部軍管区司令部の下に入り、長野師管を管轄することになった[5]。
1945年2月9日制定(10日公布)の昭和20年軍令陸第2号で、臨時的性格の留守師団をやめ、常設の師管区部隊をおく制度が定められた[6]。同日の軍令陸甲第25号により、留守第54師団司令部に4月1日をもって長野師管区司令部に改称するよう命じられた[7]。留守第54師団の司令部と各部隊は3月31日に復員(解散)した[2]。
部隊の編制
[編集]戦後に作成された『帝国陸軍部隊調査表 集成表』による[2]。「中部46部隊」等は部隊の通称号である。
- 留守第54師団司令部
- 歩兵第111連隊補充隊(中部46部隊)
- 歩兵第121連隊補充隊(中部47部隊)
- 歩兵第154連隊補充隊(中部48部隊)
- 捜索第54連隊補充隊(中部50部隊)
- 野砲兵第54連隊補充隊(中部51部隊)
- 工兵第54連隊補充隊(中部52部隊)
- 第54師団通信隊補充隊(中部53部隊)
- 輜重兵第54連隊補充隊(中部54部隊)
師団長
[編集]脚注
[編集]- ^ 戦史叢書『陸軍軍戦備』、288頁。
- ^ a b c 陸軍省『「マ」司令部提出 帝国陸軍部隊調査表 集成表(原簿)List 2 - (1)』、「149. 長野師管区部隊(54D関係)」 アジア歴史資料センター Ref.C150112154000 。
- ^ 戦史叢書『陸軍軍戦備』、372頁。
- ^ 『官報』第5405号(昭和20年1月24日)。
- ^ 戦史叢書『陸軍軍鮮卑』、474頁。
- ^ 『官報』第5420号(昭和20年2月10日)
- ^ 戦史叢書『本土決戦準備』<1>、186頁。
- ^ 『陸軍異動通報』、「第74号」 アジア歴史資料センター Ref.C12120937900 、1945年(昭和20年)3月31日。
参考文献
[編集]- 内閣印刷局『官報』。国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧。
- 陸軍省『「マ」司令部提出 帝国陸軍部隊調査表 集成表(原簿) List2 - (1)』、1945年10月下旬。アジア歴史資料センターで閲覧。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『本土決戦準備』<1>(戦史叢書)、朝雲新聞社、1971年。
- 防衛庁防衛研修所戦史部『陸軍軍戦備』(戦史叢書)、朝雲新聞社、1979年。