登誉天室
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登誉 天室(とうよ てんしつ、生年不詳 - 1574年7月5日(天正2年6月17日)[1])は、戦国時代の僧侶。大樹寺住職。
経歴
[編集]相模国小田原の人。浄土宗成道山大樹寺(愛知県岡崎市)の13代目住職。
永禄3年(1560年)5月19日昼頃、今川義元は桶狭間の戦いで戦死。織田方の武将の水野信元は、甥の松平元康(徳川家康)のもとへ浅井道忠を使者として遣わした。同日夕方、道忠は元康が守っていた大高城に到着し、今川義元戦死の報を伝えた。織田勢が来襲する前に退却するようとの勧めに対し、元康はいったん物見を出して桶狭間敗戦を確認した。同日夜半に退城。岡崎城内には今川の残兵がいたため、これを避けて翌20日菩提寺の大樹寺に入った[4][5][6]。このとき、登誉上人と相談の上、独自の軍事行動をとり、今川からの独立を果たそうとしたと言われている[7]。ほどなく今川軍は岡崎城を退去し、23日、元康は「捨城ならば拾はん」と言って岡崎城に入城した。
徳川家康の馬印の一つとして用いられた「厭離穢土欣求浄土」(穢れたこの世を離れ、浄土に往生することを願い求める)の纏[7]と登誉上人の関係については様々な説がある[注 1]。
→「厭離穢土 § 厭離穢土欣求浄土と徳川家康」を参照
映像作品
[編集]- テレビドラマ
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 新纂浄土宗大辞典
- ^ “市指定:史跡 松平八代墓”. 岡崎市ホームページ (2020年9月8日). 2021年7月19日閲覧。
- ^ a b 成田敏圀(大樹寺責任役員) (2006年12月23日). “厭離穢土 欣求浄土〜家康公の平和思想〜” (PDF). 岡崎商工会議所. 2021年3月6日閲覧。
- ^ “『岡崎市史別巻 徳川家康と其周圍』上巻、1934年、p. 304-305”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 2023年2月7日閲覧。
- ^ “『岡崎市史別巻 徳川家康と其周圍』上巻、1934年、p. 306-307”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 2023年2月7日閲覧。
- ^ 『新編岡崎市史 中世 2』, p. 809.
- ^ a b 平野 1995.
- ^ “日光東照宮と北極星 厭離穢土欣求浄土の心 神になった男 徳川家康顕彰四百年”. 青森県立図書館. 2022年12月26日閲覧。
- ^ 大樹寺の歴史, pp. 36–37.
- ^ 山岡荘八『徳川家康』 (4) 葦かびの巻、講談社、1953年、42-43頁。
- ^ 眞邊明人 (2023年1月22日). “家康の切腹を止めた「厭離穢土欣求浄土」の裏側”. 東洋経済オンライン. 2023年1月30日閲覧。
- ^ 藤根井和夫 編『NHK大河ドラマ・ストーリー 徳川家康』日本放送出版協会、1983年1月10日、82頁。
- ^ “「どうする家康」旗印“厭離穢土欣求浄土”榊原康政が教えた!杉野遥亮「意外」一連の撮影「足つるかと」”. スポーツニッポン (2023年1月15日). 2023年2月7日閲覧。
参考文献
[編集]- 柴田顕正 編『岡崎市史別巻 徳川家康と其周圍』 上巻、名著出版、1972年10月5日。
- 『新編 岡崎市史 中世 2』新編岡崎市史編さん委員会、1989年3月31日。
- 新行紀一『大樹寺の歴史』大樹寺、1983年4月17日。
- 平野明夫「戦国期徳川氏の政治的立場--織田氏との係わりを通して」『国史学』第158号、国史学会、1995年12月、97-128頁、ISSN 03869156、NAID 40001320547。