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登誉天室

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

登誉 天室(とうよ てんしつ、生年不詳 - 1574年7月5日天正2年6月17日[1])は、戦国時代僧侶大樹寺住職

経歴

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大樹寺の松平八代墓[2]。寺の言い伝えによれば、松平元康(徳川家康)はこの前で自害を図ろうし、登誉天室がそれを諫めて止めたとされる[3]

相模国小田原の人。浄土宗成道山大樹寺愛知県岡崎市)の13代目住職。

永禄3年(1560年)5月19日昼頃、今川義元桶狭間の戦いで戦死。織田方の武将の水野信元は、甥の松平元康(徳川家康)のもとへ浅井道忠を使者として遣わした。同日夕方、道忠は元康が守っていた大高城に到着し、今川義元戦死の報を伝えた。織田勢が来襲する前に退却するようとの勧めに対し、元康はいったん物見を出して桶狭間敗戦を確認した。同日夜半に退城。岡崎城内には今川の残兵がいたため、これを避けて翌20日菩提寺大樹寺に入った[4][5][6]。このとき、登誉上人と相談の上、独自の軍事行動をとり、今川からの独立を果たそうとしたと言われている[7]。ほどなく今川軍は岡崎城を退去し、23日、元康は「捨城ならば拾はん」と言って岡崎城に入城した。

徳川家康の馬印の一つとして用いられた「厭離穢土欣求浄土」(穢れたこの世を離れ、浄土に往生することを願い求める)の纏[7]と登誉上人の関係については様々な説がある[注 1]

映像作品

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テレビドラマ

脚注

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注釈

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  1. ^ 敵兵に追われた元康が、逃げ込んだ大樹寺の先祖の墓前で最早これまでと自害をはかろうとしたとき、登誉上人が「厭離穢土欣求浄土」の教えを諭し、切腹を思いとどまらせたというエピソード[8][9]は、裏付ける史料・文献が存在しない[3]山岡荘八の小説『徳川家康』でも書き記されていないが[10]、小説を原作とする1983年放映のNHK大河ドラマ『徳川家康』が採用したことから、一般に広く知られるようになった[11][12]。2023年放映の大河ドラマ『どうする家康』はこの言葉を榊原康政に言わせている[13]

出典

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  1. ^ 新纂浄土宗大辞典
  2. ^ 市指定:史跡 松平八代墓”. 岡崎市ホームページ (2020年9月8日). 2021年7月19日閲覧。
  3. ^ a b 成田敏圀(大樹寺責任役員) (2006年12月23日). “厭離穢土 欣求浄土〜家康公の平和思想〜” (PDF). 岡崎商工会議所. 2021年3月6日閲覧。
  4. ^ 『岡崎市史別巻 徳川家康と其周圍』上巻、1934年、p. 304-305”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 2023年2月7日閲覧。
  5. ^ 『岡崎市史別巻 徳川家康と其周圍』上巻、1934年、p. 306-307”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 2023年2月7日閲覧。
  6. ^ 『新編岡崎市史 中世 2』, p. 809.
  7. ^ a b 平野 1995.
  8. ^ 日光東照宮と北極星 厭離穢土欣求浄土の心 神になった男 徳川家康顕彰四百年”. 青森県立図書館. 2022年12月26日閲覧。
  9. ^ 大樹寺の歴史, pp. 36–37.
  10. ^ 山岡荘八徳川家康』 (4) 葦かびの巻、講談社、1953年、42-43頁。 
  11. ^ 眞邊明人 (2023年1月22日). “家康の切腹を止めた「厭離穢土欣求浄土」の裏側”. 東洋経済オンライン. 2023年1月30日閲覧。
  12. ^ 藤根井和夫 編『NHK大河ドラマ・ストーリー 徳川家康』日本放送出版協会、1983年1月10日、82頁。 
  13. ^ 「どうする家康」旗印“厭離穢土欣求浄土”榊原康政が教えた!杉野遥亮「意外」一連の撮影「足つるかと」”. スポーツニッポン (2023年1月15日). 2023年2月7日閲覧。

参考文献

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  • 柴田顕正 編『岡崎市史別巻 徳川家康と其周圍』 上巻、名著出版、1972年10月5日。 
  • 『新編 岡崎市史 中世 2』新編岡崎市史編さん委員会、1989年3月31日。 
  • 新行紀一『大樹寺の歴史』大樹寺、1983年4月17日。 
  • 平野明夫「戦国期徳川氏の政治的立場--織田氏との係わりを通して」『国史学』第158号、国史学会、1995年12月、97-128頁、ISSN 03869156NAID 40001320547 

関連項目

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