白声
白声(しらごえ)とは、日本の伝統芸能の一部に特徴的な発声である。
概要
[編集]節談説教-説経節-祭文-ちょんがれ-浪花節と祭文系の芸能に特徴的な発声で、特に浪曲で一般に知られ、白声=寂声(さびごえ)=胴声(どうごえ)=シオカラ声=いわゆるダミ声で唸ることが必須であった時代は長くあった。日常的に大声を出す職種[注釈 1]にも似た特有の声である(注意深く聞けば分かるが、若干違う)。倍音成分が多く、近年日本でも知られるようになったホーミーと類似するという説もある。「白声とは、最も低い領域の呂の声のしかもしゃがれた声にあたり、力身とはりきむ、力をこめてきばって声をはりあげる、いきみ声を指す。」 颯田琴次氏は、『かたい声やわらかい声』(日本放送局出版協会)で、 日本人の音声はどちらかというと、いわゆるイキミ声である。発音の器官中、いずれかの部分にムリが行われている証拠だと思う。よしあしの問題ではない。事実であり、現象だ。(中略) 次にイキミ声の問題だが、これは永いあいだの生活環境に順応して、おのずから育成されたものである。浪花節ではそれが少し極端に誇張されたきらいはあるが、その傾向の絶無なのは、上品視されている他の伝統的な声曲にも、ほとんどないと言っていいとおもう。よしあしにかかわらず、日本ではこれが発声法の常識であって、日本人の聴感覚もそれにまったく馴れていると、考えるべきものであろう。 よく言われる「胴間声(どうまごえ)」は悪い声を示し、浪曲師の(理想的な)声(一例:桃中軒雲右衛門)としては誤りである。
今でも「浪曲」の代表的イメージはこの声という面は大きいようで、落語の三遊亭歌奴「浪曲社長」や、SWAの三遊亭白鳥作で柳家喬太郎も演じる「任侠流山動物園」でうなられる浪曲は、この白声を強くイメージしている。
その特徴的な声を作るために、喉から血が出るような修業を積んだという苦労談は多々ある[注釈 2][注釈 3]。が、マイクロフォンが発達して以降は、胴声は必須ではなくなった。小音(しょうおん。マイクなしでは寄席の後方まで届かないような小さな声)であってもその才能が生かされるようになり、代わりに胴声を使いこなす浪曲師は(他の芸能でも)減少の一途をたどったまま現在に至る。
西洋音楽のベルカント唱法とは対極に位置するもので、西洋音楽が主流となった現在では、いよいよ蔑まれがちな声でもある。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 市場での声や、露店でよく聞かれる
- ^ これはただただ怒鳴る。そうしてカラカラに声を嗄らしてしまう。そこをいよいよふた調子も三調子も張り上げて、血を吐く思いで歌いつづける。すると枯れがれに枯れつくした底の底のまた底の方から滾滾と美しい声の泉が噴き上げて来る。即ちそれが、自分の研がれ、磨かれ、鍛え上げられたほんとうの「声」なのだ。 -正岡容「日本浪曲史」南北社版 P.357-358
- ^ 「すると先生は「まず声の訓練をせよ」とおっしゃいました。ごうごうと落ちる滝、ざあざあと流れる川、どうどうと打ち寄せる波、そういうものに向かって、それらの音に敗けない声でお経をせよ。三日か四日で声はつぶれるが、それでも出ない声でやる。そのうちのどから血が出る。それでもまだやる。そうして三十日か四十日たったころに何日も何日もしゃべっても決して枯れない声になる。本格的な布教師になるならば、それに耐える努力をしなければならないがどうか、というわけです。祖父江(1985)p.69
出典
[編集]参考文献
[編集]- 祖父江省念著 編『節談説教七十年』晩声社、1985年10月。
- 徳丸, 吉彦、高橋, 悠治、北中, 正和 ほか 編『事典世界音楽の本』岩波書店、2007年12月。ISBN 978-4-00-023672-0。
音声資料
[編集]関連項目
[編集]- 発声法
- 声帯結節
- 都々逸坊扇歌 - 「ちょんがれ声」だったという記録が残る江戸・明治の音曲師。
- 初代東家浦太郎 - 最後の胴声の使い手、と称されることも多い浪曲師。
- デスヴォイス - 初期の浪曲と聞き比べると、だみ声という表現が正しくないことがわかる。
外部リンク
[編集]- 国立国会図書館 歴史的音源「れきおん」 - 歴史的に貴重な音源を探して聞く事ができるサービス。収録されている浪曲は、そのほとんどが白声のものである。