白山丸 (1923年)
白山丸 | |
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白山丸 | |
基本情報 | |
船種 | 貨客船 |
クラス | H型貨客船 |
船籍 | 大日本帝国 |
所有者 |
三菱合資会社 日本郵船 |
運用者 |
日本郵船 大日本帝国海軍 |
建造所 | 三菱造船長崎造船所 |
母港 | 東京港/東京都 |
姉妹船 |
箱根丸 榛名丸 筥崎丸 |
信号符字 | SNCN→JDXD |
IMO番号 | 29444(※船舶番号) |
建造期間 | 599日 |
就航期間 | 7,564日 |
経歴 | |
起工 | 1922年1月30日[1] |
進水 | 1923年5月19日[1] |
竣工 | 1923年9月20日 |
除籍 | 1944年7月10日 |
最後 | 1944年6月4日被雷沈没 |
要目 | |
総トン数 | 10,380トン |
純トン数 | 6,270トン |
載貨重量 | 11,535トン[2] |
排水量 | 18,851トン[1] |
全長 | 158.5m[3] |
垂線間長 | 150.88m[1] |
幅 | 18.89m[1] |
型幅 | 18.90m |
型深さ | 11.27m[1]or 11.28m[2] |
高さ |
32.61m(水面からマスト最上端まで) 9.75m(水面から船橋最上端まで) 21.94m(水面から煙突最上端まで) |
喫水 | 8.8m[1] |
ボイラー | 石炭専燃缶 |
主機関 | 三菱製パーソンズ式3気筒高中圧串型(後進混成)タービン機関 2基 |
推進器 | 2軸 |
出力 | 9,299SHP[4] or 9,600SHP[5] |
最大速力 | 16.526ノット[1] |
航海速力 | 15ノット[5]or 14ノット[4] |
航続距離 | 14.5ノットで10,000海里 |
旅客定員 |
一等:118名 二等:55名 三等:134名[1][3] |
1940年9月17日徴用。 高さは米海軍識別表[6]より(フィート表記)。 |
白山丸 | |
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基本情報 | |
艦種 |
特設港務艦 特設運送船 |
艦歴 | |
就役 |
1940年10月7日(海軍籍に編入時) 連合艦隊第二艦隊第1根拠地隊/佐世保鎮守府所管 |
要目 | |
兵装 |
特設港務艦時 三年式8cm単装高角砲2門 九三式13mm機銃単装1基1門 九六式90cm探照灯1基 武式二米半測距儀1基 特設運送船時 四一式8cm砲1門 九三式13mm機銃連装1基2門 九六式90cm探照灯1基 爆雷 |
装甲 | なし |
搭載機 | なし |
徴用に際し変更された要目のみ表記。 |
白山丸(はくさんまる)は、日本郵船が保有した貨客船である。欧州航路向けの優秀船として1923年に竣工した。第二次世界大戦期には日本海軍に徴用され、特設艦船として危険な任務に従事。2度の損傷に耐えながら戦争後半まで残存したが、1944年6月にサイパン島から疎開する民間人多数を乗せて航行中、アメリカ海軍潜水艦により撃沈された。船名由来は白山比咩神社。
商船時代
[編集]「白山丸」は、H型と通称される「箱根丸」級貨客船4隻の最終船として、三菱造船株式会社長崎造船所で起工された。H型は第一次世界大戦で戦没した「平野丸」等の代船として日本郵船の欧州航路用に設計された船であるが、本船は進水時点で日本郵船が船主でなく、長崎造船所のストックボート扱いであった[5]。1923年(大正12年)9月20日に竣工した。
本船を含む日本郵船H型は欧州航路向けの優秀船であり、日本の欧州航路にとって画期的な性能を有した。デザインは大正時代の船らしい古典的な姿で、中央に高い1本煙突、前後の甲板に1本ずつのマストが立っている。ヨーロッパ各国の客船に比べると小型であったが、日本を代表するという立場から内装は豪華な設備が施されていた[7]。
竣工した「白山丸」は、命令航路である横浜=ロンドン航路(スエズ運河経由)に就航した。途中寄港地は神戸港、上海、香港、シンガポール、コロンボ、ポートサイド、マルセイユなどとなっている。1924年(大正13年)1月には、フランスで死去した北白川宮成久王の遺体を、王妃の房子内親王とともに日本へ運んで話題になった[8]。新型の「照国丸」と「靖国丸」が竣工した後も、ともに同航路での航海を続けた。第二次世界大戦が勃発してもロンドン航路の運航は継続されたが、バトル・オブ・ブリテン開始など情勢悪化のため、1940年(昭和15年)6月には目的地をリバプールに変更して、日本への帰国者を収容している[9]。最終的に「白山丸」は同年9月に日本海軍に徴用され、同年10月をもってロンドン航路も運休となった。
特設艦船時代
[編集]太平洋戦争中期まで
[編集]1940年9月17日付で日本海軍に徴用された「白山丸」は、佐世保鎮守府所管の特設港務艦となった[10]。占領地の港湾設備を整えることが主任務で、船首と船尾に砲座を設け、船倉の一部を弾薬庫に改装するなど所要の工事を受けている。最終時には水中聴音機も装備されていた。太平洋戦争開始後の1942年(昭和17年)3月10日に特設運送船へ類別変更された[10]。なお、姉妹船のうち「筥崎丸」も同様に特設港務艦として徴用されている[7]。
「白山丸」は、1942年6月にアリューシャン作戦に投入され、海軍陸戦隊を輸送して6月8日のキスカ島無血上陸に参加した[8]。その後は、日本軍占領地への人員・物資の補給任務に従事した。
1943年(昭和18年)10月17日には、「東京丸」とともに駆逐艦「白露」の護衛下で、トラック島からラバウルに人員および建築資材や食糧を輸送中、ニューアイルランド島カビエンの北北西70海里(約130km)付近において、アメリカ陸軍航空軍のB-24爆撃機による爆撃と機銃掃射を受けて炎上[11]、船長以下36人が戦死した[12]。
翌10月18日にラバウルへたどり着いて応急修理を開始したが、11月2日にもアメリカ陸軍航空軍のB-25爆撃機・P-38戦闘機によるラバウル空襲に巻き込まれた[11]。左舷に爆弾が命中、煙突などを損傷して、乗員2人と作業中の工員多数が戦死した。このときも沈没は免れて応急修理され、「恵昭丸」と「第五日の丸」から49人の乗員補充を受けた後[13]、アメリカ軍哨戒機の空襲を撃退しつつ[5]、1944年(昭和19年)1月29日に大阪港へ帰還した。
最期
[編集]「白山丸」の最期の航海となったのは、日本からサイパンへの往復の帰途であった。当時、サイパンにはアメリカ軍の侵攻が迫っており、防備強化と居留民の本土引揚げが進められていた。1944年5月3日に大阪を出港した「白山丸」は、三池港に寄って石炭を積み取った後、横須賀港でサイパンへ向かう増援部隊600人と軍需物資を満載した。第3515船団(輸送船12隻・護衛艦8隻[注 1])に加入し、5月17日に館山沖を出撃、同月25日に無事にサイパンへ到着した[14]。
帰途は、第4530船団(輸送船8隻・護衛艦5隻[注 2])に組み込まれて、サイパンから日本本土へ向かう軍人・軍属計71人と、本土疎開する民間人375人が乗船した。民間人のほとんどは女性と子供で、特に11歳以下の子供が190人も含まれていた[10]。ほかに、乾カタツムリ27トンと揚げ残しの石炭265トンを積荷としている[8]。
第4530船団は、5月31日の朝にサイパンを出発した。加入輸送船の中で最優秀だった「白山丸」は、基準船として船団の先頭中央に位置した。最初は北西への欺騙航路を進み、途中から北に針路を変えたが[13]、アメリカ潜水艦の待ち伏せを受けてしまった。6月2日午後10時頃、浮上したアメリカ潜水艦「シャーク」が船団左方から魚雷を発射[17]、本船の左隣に位置していた「千代丸」(栃木汽船:4700総トン)に2発が命中し、炎上沈没した[13]。「白山丸」は回頭して逃れた。
6月4日未明の午前4時5分頃、北緯22度37分・東経136度50分(硫黄島西南西280海里)、アメリカ側記録によれば北緯22度45分・東経136度50分(父島南西350海里)の地点で、アメリカ潜水艦「フライアー」の雷撃を受け[17]、魚雷1発が左舷に命中した。2番船倉と3番船倉の中間に命中したことから両船倉へ急速に浸水が進み[13]、午前4時10分には総員退去が発令された。女性と子供を優先的に救命艇で避難させようとしたが、ダビットによる降下作業がうまくいかず、1隻を除いて本船とともに沈没してしまった。被雷から約10分後、「白山丸」は船首を直立した状態で沈没した。第12号海防艦など4隻が救助作業にあたったが、収容できたのは乗船者のうち約半数である320人にとどまり、民間人276人を含む324人が死亡した[10]。沈没までの時間の短さと、女性や子供の多さが犠牲を大きくしたものと推定されている[16]。
特務艦長
[編集]- 監督官
- 瀬谷三郎 大佐:1942年3月10日[20] - 1942年4月25日[21]
- 後藤晴善 大佐:1942年4月25日[21] - 1943年5月23日[22]
- 小澤覚輔 大佐:1943年5月23日[21] - 1943年5月25日
- 指揮官
- 小澤覚輔 大佐:1943年5月25日 - 1944年5月1日[23]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 加入輸送船は「白山丸」「濱江丸」「日本海丸」「第八雲洋丸」「営口丸」「麗海丸」「錦州丸」「夏川丸」「東豊丸」「清海丸」「明島丸」「千代丸」。護衛艦は、駆逐艦「旗風」(旗艦)、海防艦「御蔵」、同「三宅」、第16号海防艦、敷設艇「猿島」、第20号掃海艇、第48号駆潜艇および特設防潜網艇「第二号興亜丸」[14]。指揮官は第5護衛船団司令官の吉富説三少将。船団名は横須賀鎮守府の護送船団への命名規則に基づくもので、千の位の3は横須賀・トラック島間航路の下り方面を、下3桁は5月15日出航を意味する[15]。
- ^ 加入輸送船は「白山丸」「仁山丸」「第八雲洋丸」「営口丸」「夏川丸」「春川丸」「海光丸」「千代丸」。護衛艦は、往路と同じ「旗風」(旗艦)と「猿島」、第20号掃海艇のほか、第12号海防艦および特設駆潜艇「第二文丸」。駒宮(1987年)は、「拓南丸」も護衛艦に挙げている[16]。指揮官は往路と同じ吉富少将。船団名は千の位の4は横須賀・トラック島間航路の上り方面を、下3桁は5月30日出航を意味する[15]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i 『船の科学』1979年10月号 第32巻第10号、30頁
- ^ a b 『七つの海で一世紀 日本郵船創業100周年記念船舶写真集』、59頁
- ^ a b 『世界の艦船 別冊 日本の客船[1] 1868-1945』、63頁
- ^ a b 『日本郵船戦時戦史』上、690頁。
- ^ a b c d 岩重(2011年)、102頁。
- ^ Hakone_Maru_class
- ^ a b 岩重(2011年)、9頁。
- ^ a b c 『日本郵船戦時戦史』上、691頁。
- ^ 「日の丸船隊の意気 欧洲航路を確守―今ぞ度胸の見せどころ」 大阪毎日新聞1940年6月2日。
- ^ a b c d 『日本郵船戦時船史』上、694頁。
- ^ a b Cressman (1999) , chapter V.
- ^ 『日本郵船戦時船史』上、692頁。
- ^ a b c d 『日本郵船戦時船史』上、693頁。
- ^ a b 駒宮(1987年)、176-177頁。
- ^ a b 岩重(2011年)、71頁。
- ^ a b 駒宮(1987年)、184-185頁。
- ^ a b Cressman (1999) , chapter VI.
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第541号 昭和15年10月7日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079000
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第631号 昭和16年5月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081000
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第824号 昭和17年3月10日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072084400
- ^ a b c 「海軍辞令公報(部内限)第849号 昭和17年4月27日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072085200
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第1023号 昭和18年5月24日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072091100
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第1453号 昭和19年5月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072098000
参考文献
[編集]- 岩重多四郎『戦時輸送船ビジュアルガイド2―日の丸船隊ギャラリー』大日本絵画、2011年。
- 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年。
- 日本郵船株式会社『日本郵船戦時船史』 上、日本郵船、1971年。
- Cressman, Robert J. (1999). The Official Chronology of the US Navy in World War II. Annapolis: MD: Naval Institute Press
- 船舶技術協会『船の科学』1979年10月号 第32巻第10号
- 日本郵船株式会社『七つの海で一世紀 日本郵船創業100周年記念船舶写真集』1985年
- 海人社『世界の艦船 別冊 日本の客船[1] 1868-1945』1991年 ISBN 4-905551-38-2
関連項目
[編集]- 亜米利加丸 - 同じくサイパンからの避難民を輸送中に撃沈された船。
- 対馬丸 - 沖縄からの本土疎開で多数の民間人犠牲者を出した船。
- 白山丸 (1940年) - 1940年進水の同名船。
外部リンク
[編集]- 1/700戦時輸送船模型集:白山丸 - 岩重多四郎による戦時状態の再現模型