白雲梯
白雲梯 (セレンドンロブ) | |
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プロフィール | |
出生: |
1894年2月17日 (清光緒20年正月12日) |
死去: |
1980年(民国69年)8月2日 中華民国台北市 |
出身地: | 清内モンゴルジョソト盟(卓索図盟)カラチン中旗(喀喇沁中旗) |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 白雲梯 (色楞棟魯布) |
簡体字: | 白云梯 (色楞栋鲁布) |
拼音: | Bái Yúntī |
ラテン字: | Pai Yün-t'i (Selengdonglubu) |
和名表記: | はく うんてい (セレンドンロブ) |
発音転記: | バイ ユンティー |
白 雲梯(はく うんてい)は中華民国の政治家。モンゴル族。モンゴル名はセレンドンロブ(Serengdongrub)。中国国民党に属し、内モンゴルでの党組織に従事した。また、反蔣介石運動にも加わっている。字は巨川。
事跡
[編集]1911年(宣統3年)、北京国文専修館で漢文を学ぶ。翌1912年(民国元年)、公立蒙蔵学校法制経済科に入学した。1919年(民国8年)、中国国民党に加入する。翌年、内蒙古党務特派員に任ぜられた。
1924年(民国13年)1月、国民党第1回全国代表大会に出席し、第1期候補中央執行委員に選出されている(第2期、第4期も同様)。3月、国民党内蒙臨時執行委員会籌備員に任ぜられ、内モンゴルでの党組織建設に従事した。翌年3月、内蒙古国民党全蒙代表大会が実施され、白雲梯が党執行委員会委員長に選出されている。1926年(民国15年)1月、蒙古宣慰使に任ぜられる。1928年(民国17年)2月、2期4中全会で中央執行委員に補充選出された。6月、蒙蔵委員会常務委員に任ぜられる。11月、寧夏省政府委員となった。
その後白雲梯は、汪兆銘(汪精衛)ら改組派の一員として反蔣介石運動に参加した。そのため、1929年(民国18年)11月に党籍を剥奪される。翌年、馮玉祥と閻錫山らが北平で開催した拡大会議に参加し、反蔣の国民政府民族部主任委員となった。しかし、反蔣軍が敗北したため、白は広東省に逃れた。
1931年(民国20年)10月、各派大同団結により白も党籍を回復している。12月、党中央組織委員会委員に任ぜられた。1934年(民国23年)3月、蒙古地方自治政務委員会委員も兼ねている。しかし、後に重慶に移り、汪兆銘らの親日政府樹立活動には追随しなかった。
1945年(民国34年)5月、国民党第6期中央執行委員に選出される。翌年11月、制憲国民大会代表に当選した。1947年(民国36年)7月、蒙蔵委員会副委員長に任ぜられる。冬には行憲国民大会代表に当選した。1948年(民国37年)12月、蒙蔵委員会委員長に選出された。翌年6月までその地位にあった。
国共内戦での国民党敗北とともに、白雲梯も台湾へ逃亡した。そこで中華民国総統府国策顧問に任ぜられている。1957年(民国46年)10月以降、第8期から第11期まで連続して党中央評議委員に選出された。
1980年(民国69年)8月2日、台北にて病没。享年87(満86歳)。
関連項目
[編集]参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(国民政府)
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