的野半介
的野 半介(まとの はんすけ、1858年7月8日(安政5年5月28日[1][2])- 1917年(大正6年)11月29日[1][2][3])は、明治・大正期の実業家、政治家、衆議院議員、玄洋社社員[4]。旧名・薫[4]。
経歴
[編集]筑前国那珂郡、後の筑紫郡警固村[注 1](現・福岡県福岡市警固)で福岡藩士の家に生まれ、藩校の修猷館で漢学を修めた[1][3][5][6][7]。1891年(明治24年)に分家[7]。
玄洋社に加わり、自由党に入党[1][2]。1880年(明治13年)筑前共愛公衆会遠賀郡連合会書記に出向[8]。東京在住の玄洋社員であった的野、来島恒喜、久田全らは、赤沢常容、樽井藤吉らと朝鮮挙兵を企てたが、1885年(明治18年)の大阪事件が発覚し実行を断念[9]。福岡で精米業を開業するも経営に失敗[10]。甲申政変後、日本に亡命していた金玉均が小笠原諸島に滞在していた1886年(明治19年)4月に、的野と来島恒喜と竹下篤次郎の3人で金を慰問した[11]。1892年(明治25年)の第2回衆議院議員総選挙で玄洋社は吏党側に付き、的野は柳川・三池において杉山茂丸ら総勢200人と民党側の弾圧を行った(選挙干渉)[12]。1894年(明治27年)の甲午農民戦争(東学党の乱)に際して天佑侠の結成に参画した[10]。日露関係の悪化に際しては日露戦争の開戦を主張し、戦後に日本移民協会、太平洋協会などを設立した[10]。
1908年(明治41年)5月、第10回衆議院議員総選挙に福岡県郡部から憲政本党所属で当選[1][2][3][6][7]。その後、第12回総選挙まで再選され、衆議院議員を連続3期務めた[1][2][3][6]。この間は、憲政会に所属していた[3]。
『福陵新報』の社長となり、1898年(明治31年)には同紙を『九州日報』に改題して引き続き同社主となった[2][10][13]。また、八幡製鐵所の誘致にも尽力した[4]。その他、若松取引所理事、筑豊坑業組合幹事、関門新報社長、遼東新報顧問などを務めた[1][3][6]。
1917年(大正6年)、福岡市船町(現・中央区舞鶴1丁目)の自宅にて肺炎のため死去[14]。59歳没。
著作
[編集]- 『帝国開富策』的野半介、1891年
- 的野他『経済界ノ警鐘 : 炭鉱鉄道会社の真相』的野半介、1893年
- 『江藤南白』上下、南白顕彰会、1914年
伝記
[編集]- 和田新一郎『的野半介』月成勲、1933年。
親族
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g 『20世紀日本人名事典 そ-わ』2370頁。
- ^ a b c d e f 『日本人名大辞典』1795頁。
- ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』610頁。
- ^ a b c d 『玄洋社・封印された実像』玄洋社社員名簿59頁。
- ^ 和田『的野半介』7頁。
- ^ a b c d 『衆議院議員略歴』298頁。
- ^ a b c d 『人事興信録』第3版、ま29頁。
- ^ 『玄洋社・封印された実像』139-140頁。
- ^ 『玄洋社・封印された実像』163頁。
- ^ a b c d 『最新 右翼辞典』535頁。
- ^ 『玄洋社・封印された実像』191頁。
- ^ 『玄洋社・封印された実像』182頁。
- ^ 『玄洋社・封印された実像』216頁。
- ^ a b 『大正過去帳』141頁。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録』第3版、1911年。
- 『第一回乃至第十九回総選挙 衆議院議員略歴』衆議院事務局、1936年。
- 『大正過去帳 物故人名辞典』東京美術、1973年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
- 『20世紀日本人名事典 そ-わ』日外アソシエーツ、2004年。
- 堀幸雄『最新 右翼辞典』柏書房、2006年。
- 石瀧豊美『玄洋社・封印された実像』海鳥社、2010年。