益田就之
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 元和元年(1615年) |
死没 | 寛文12年8月27日(1672年10月17日) |
改名 | 才八(幼名)→益田就之 |
別名 | 隼人佐(通称) |
主君 | 毛利秀就→綱広 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 益田氏 |
父母 | 父:益田元祥、母:雲州人 |
兄弟 | 広兼、景祥、家澄、就之、就景 |
妻 | 宍道元兼の娘 |
子 | 就武、財満久長 |
益田 就之(ますだ なりゆき)は、江戸時代前期の毛利家家臣・長州藩士。石見の国人・益田氏の第20代当主である益田元祥の四男。
生涯
[編集]元和元年(1615年)、毛利家の重臣である益田元祥の四男として生まれる。
元和9年9月18日(1623年11月10日)、毛利秀就から隼人佐の官途名と「就」の偏諱を与えられ、就之と名乗る。寛永9年(1632年)、父・元祥の隠居料3000石のうち、2000石を相続した[1]。
その後、嫡男の就武(又兵衛)が病により家督を継ぐことが出来なかったため、就武の嫡男の就朋(隼人)に家督を譲り、寛文12年(1672年)に58歳で死去。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 萩藩閥閲録巻30「益田右衛門」
- 近世防長諸家系図綜覧 「42 寄組益田家」