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盛以弘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

盛 以弘(せい いこう、生年不詳 - 1629年)は、明代官僚は子寛。本貫潼関衛

生涯

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盛訥の子として生まれた。1598年万暦26年)、進士に及第し、翰林院庶吉士となった。1600年(万暦28年)、翰林院検討に進んだ[1]1611年(万暦39年)6月、左春坊左賛善となった[2]1613年(万暦41年)11月、左庶子・兼翰林院侍読に転じた。1616年(万暦44年)8月、国子祭酒に任じられた[3]1618年(万暦46年)5月、少詹事となった。6月、『玉牒』の編纂にあたった[4]1621年天啓元年)、吏部左侍郎に転じた。1623年(天啓3年)2月、礼部尚書に任じられた。5月[5]、病のため致仕し、帰郷した。魏忠賢のためにその職を剥奪された。1628年崇禎元年)8月、協理詹事府として起用された。1629年(崇禎2年)に在官のまま死去した。1630年(崇禎3年)6月、太子太保の位を追贈された[6]。著書に『紫気亭集』12巻・『鳳毛館帖』4巻があった[7]

脚注

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  1. ^ 談遷国榷』巻78
  2. ^ 『輯校万暦起居注』
  3. ^ 『国榷』巻82
  4. ^ 『国榷』巻83
  5. ^ 明史』七卿年表二
  6. ^ 『国榷』巻91
  7. ^ 『陝西通志』巻75

参考文献

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  • 『明史』巻243 列伝第131