盧作孚
盧作孚 | |
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プロフィール | |
出生: |
1893年4月14日 (清光緒19年2月28日) |
死去: |
1952年2月8日 中華人民共和国四川省重慶市 |
出身地: | 清四川省重慶府合州 |
職業: | 政治家・教育家・実業家 |
各種表記 | |
繁体字: | 盧作孚 |
簡体字: | 卢作孚 |
拼音: | Lú Zuòfú |
ラテン字: | Lu Tzo-fu |
和名表記: | ろ さくふ |
発音転記: | ルー ズオフー |
盧 作孚(ろ さくふ)は中華民国、中華人民共和国の政治家・教育家・実業家。主に国民政府時代に実業家として活躍し、名声をあげた人物である。別名は盧思。
事跡
[編集]四川メディア界での活動
[編集]麻布を売る小売商人の子に生まれる。15歳の時に、成都の文化初習学校で学ぶ。この頃から、孫文(孫中山)の革命思想に傾倒し始めた。
1916年(民国5年)から1920年(民国8年)5月まで、成都の新聞である『群報』の記者、『川報』の主筆をつとめた。民国8年夏に、少年中国学会成都分会に加入する。また、冬から、チベットに関する実地取材を『川報』で連載して、四川省の政界から注目を集めるようになった。
1921年(民国9年)、瀘州に拠っていた川軍(四川軍)第9師師長兼永寧道尹の楊森の下で、道尹公署教育科長に就任した。1924年(民国13年)5月、楊が四川軍務督理(督軍)に就任すると、盧は省教育庁長として招聘された。しかし盧はこれを断り、成都民衆通俗教育館長をつとめた。
水運業での成功
[編集]1925年(民国14年)より、盧作孚は水運の開業を目指して準備を開始する。1926年(民国15年)6月10日、民生輪船公司(民生実業股份有限公司)を合川で創業し、盧は総経理に就任した。合川・重慶間の水運を担って成果をあげている。1929年(民国18年)、川軍の有力指導者である劉湘の招聘を受けて、川江航務管理処処長を1年間つとめた。
その後も、盧作孚の水運業は軌道に乗って順調に事業を拡大していく。1929年(民国18年)から1930年(民国19年)にかけて、宜昌、漢口、南京、上海にまで、水運を拡大した。また、その運営自体も、外国の水運業に良く伍するものであった。さらに水運事業だけでなく、民生造船廠、天府煤鉱公司、扶植渝鑫錬鋼廠などの関連会社を創設し、一大企業グループを形成している。
1935年(民国24年)からは、四川省政府主席に就いた劉湘の招聘により、省建設庁長を2年間つとめた。盧作孚が勃興した水運業を始めとする各種産業は、国民政府が内陸部へ撤退した後の抗戦維持に大きく貢献している。国民政府中央でも、1937年(民国26年)に交通部次長、1938年(民国27年)に全国糧食管理局局長をつとめた。
国共内戦期以後
[編集]日中戦争(抗日戦争)後の1945年(民国34年)、盧作孚は太平洋輪船公司を設立した。上海を拠点にして、香港、台湾、ついには日本、東南アジアとの海運事業にまで拡大し、成功している。国共内戦終結後、盧作孚は一時香港に寓居した。まもなく周恩来の招聘に応じて北京入りし、中国人民政治協商会議全国委員会委員、西南軍政委員会委員などを歴任している。
しかし、国内の政策が社会主義改造へと傾く中で、盧作孚は次第に中国国内で「官僚資本家」として糾弾されるようになる。1952年2月8日、盧は重慶で憂悶のうちに死去した[1]。享年60(満58歳)。現在の中国では盧の名誉は回復され、「民族資本家」としての功績を高く評価されている。
注
[編集]- ^ 堀井伸浩「盧作孚」は服毒自殺、周凝華「盧作孚」は病没としている。徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』は、単に「逝世」(逝去、死去)としている。
参考文献
[編集]- 周凝華「盧作孚」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第9巻』中華書局、1997年。ISBN 7-101-01504-2。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 堀井伸浩「盧作孚」天児慧ほか 編『岩波現代中国事典』岩波書店、1999年。ISBN 4-00-080091-4。