直江景明
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直江景明像(『集古十種』より) | |
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
生誕 |
文禄3年(1594年) または慶長3年(1598年) |
死没 | 慶長20年7月12日(1615年9月4日) |
改名 | 直江竹松丸(幼名)→直江景明 |
別名 | 通称:平八 |
戒名 | 月峰清秋大禅正門 |
主君 | 上杉景勝 |
氏族 | 直江氏 |
父母 | 父:直江兼続、母:船(直江景綱の娘) |
兄弟 | 於松(本多政重正室)、景明 |
妻 | 正室:戸田氏鉄の娘(後に板倉重宗継室) |
子 | なし |
直江 景明(なおえ かげあき)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。上杉氏家臣。父は直江兼続。幼名は竹松丸。通称は平八。
生涯
[編集]文禄3年(1594年)[1]に上杉氏の家老・直江兼続の子して生まれる。主君・上杉景勝の偏諱を受け、元服後に景明と名乗る。
慶長14年(1609年)12月2日、幕府重臣・本多正信の媒酌により[2]、近江国膳所藩主・戸田氏鉄の娘を娶る。婚礼の祝儀として、この年米沢藩の役儀が10万石分減免された。
慶長16年(1611年)に兼続の養子・本多政重が出奔したため、景明が正式に兼続の継嗣となった。なお、本多政重は翌年に加賀藩に仕官している。
慶長19年(1614年)11月から始まる大坂冬の陣に従軍し、同年11月26日の鴫野の戦いにて将軍・徳川秀忠より感状を与えられたが、慶長20年(1615年)7月12日、父に先立って病死した。享年22、または18。戒名は月峰清秋大禅正門。
兼続の婿養子の本多政重と、景明誕生以前に兼続の養子であった本庄長房の2人は共に加賀藩へと出奔していたため、兼続に後継者は残っておらず、母・船の死後、直江家は無嗣断絶となった。
なお、景明は生来病弱で両眼を病んでいたため、兼続が景明のために五色温泉を開き、長期間の湯治をしたという逸話が残る。