相模丸 (初代)
相模丸(さがみまる)は共同運輸会社、日本郵船の鉄製汽船[1]。
1885総トン、速力12ノット[1]。
共同運輸がイギリスのアームストロング・ミッチェル社で新造し[1]、1884年10月13日に横浜に到着した[2]。
1884年12月の甲申政変では御用船として輸送任務に従事した[3]。
1885年9月に共同運輸は郵便汽船三菱と合併して日本郵船となり、「近江丸」も日本郵船に継承された[4]。
1890年、ハワイへの移民輸送を行い、移民596人を運んだ[5]。
日清戦争では巡洋艦代用として海軍に傭船された[6]。期間は1894年6月15日から1895年9月30日まで[7]。雇用代金は11万3952円[8]。兵装は80年式12cm克砲2、短7.5cm克砲2、47mm保式重速射砲2、小銃50、拳銃20、舶刀20であった[8]。「相模丸」の主任務は艦隊軍需品の供給で、水雷艇母艦任務も後に追加された[9]。
義和団事件の際には1901年から9月6日に陸軍に徴傭され、1902年2月2日まで解傭された[10]。
1903年12月時点では「相模丸」は神戸・小樽線に就航していた[11]。
日露戦争では1904年2月5日に海軍に徴傭され、運送船として使用された後、5月の第三回旅順口閉塞作戦で閉塞船として使用され沈んだ[12]。閉塞作戦時の指揮官は湯浅竹次郎大尉であった[13]。「相模丸」では24名全員が消息不明となったが、生存者9名がロシア側に収容されており、また後日湯浅以下3名の遺体が旧ロシア軍墓地で発見されている[14]。「相模丸」乗員であった河野精蔵によれば、「相模丸」は砲撃や雷撃を受けるも港口の防材を突破して爆沈[15]。その時点では戦死者はなくボートで退避を図るが、ボートの破損などの影響で離れられず、「相模丸」の沈没に巻き込まれてボートが転覆し、その後死亡する者が続出したという[15]。。
脚注
[編集]- ^ a b c 『日本郵船船舶100年史』53ページ
- ^ 『日本郵船株式会社五十年史』42-43ページ
- ^ 『日本郵船株式会社五十年史』43-44ページ
- ^ 木津重俊(編)『日本郵船船舶100年史』17、53ページ
- ^ 『日本郵船株式会社五十年史』98-99ページ
- ^ 石橋孝夫『日本海軍仮装巡洋艦入門』15-17ページ
- ^ 『日本郵船株式会社五十年史』130ページ
- ^ a b 石橋孝夫『日本海軍仮装巡洋艦入門』16ページ
- ^ 石橋孝夫『日本海軍仮装巡洋艦入門』22ページ
- ^ 『日本郵船株式会社五十年史』184ページ
- ^ 『日本郵船株式会社五十年史』189-190ページ
- ^ 『日本郵船株式会社五十年史』201、203ページ。石橋孝夫『日本海軍仮装巡洋艦入門』34ページ。真鍋重忠『日露旅順海戦史』82-87ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』87ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』89-90、93ページ
- ^ a b 真鍋重忠『日露旅順海戦史』92ページ
参考文献
[編集]- 木津重俊(編)『日本郵船船舶100年史』世界の艦船・別冊、海人社、1984年、ISBN 4-905551-19-6
- 石橋孝夫『日本海軍仮装巡洋艦入門』潮書房光人新社、2024年、ISBN 978-4-7698-3361-1
- 日本郵船株式会社(編)『日本郵船株式会社五十年史』日本郵船、1935年
- 真鍋重忠『日露旅順海戦史』吉川弘文館、1985年、ISBN 4-642-07251-9