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真壁騒動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
真壁騒動
戦争地租改正反対一揆
年月日1876年(明治9年)11月27日 - 11月30日
場所茨城県
結果
交戦勢力

真壁騒動(まかべそうどう)は、1873年茨城県真壁郡で発生した地租改正条例に基づく石代相場の引き下げを要求した一揆

現行の高等学校日本史」の教科書では、三重県愛知県岐阜県堺県で発生した伊勢暴動(真壁一揆)と並び、地租改正反対一揆の代表とされている[注 1]

経緯

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1876年11月27日茨城県真壁郡吉間村(現在の筑西市)に約300人の農民が結集、副区長に強訴する事件が発生、同月30日には同郡飯塚村(現在の桜川市真壁町飯塚)で民衆蜂起が起き[1]、164名の捕縛者を出した[1]

研究史

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1880年(明治13年)に地租改正当局者は、和歌山県や茨城県での一揆とその後に発生した伊勢暴動について次のように述べている[2]

茨城三重和歌山三県暴動ノ近因ハ米価ノ高キニ苦ムト云フニアリ。其事タル直接ニ改正ニ関係スルニアラサレトモ、其遠因ヲ尋ヌルハ又改正余響タルニ外ナラサルヲ以テ、之ヲ改正ノ為メノ苦情ト謂ハサルヲ得ス。 — 「彙報」(『集成』7巻)381ページ

すなわち、当時の役人は地租改正反対が一揆の目的にあるが、米価高騰も背景にあると捉えていた。

木戸田四郎は、真壁騒動などの茨城の一揆や伊勢暴動が石代納問題に端を発していることに着目し、1959年(昭和34年)に次のような説を唱えた[3]

茨城の場合とくにそうだが、三重愛知等においても、農民は地租改正反対を主たる目的として一揆をおこしたのではなく、維新以来諸負担の増加に憤激した農民が、九年の石代納米価基準を不満とし、これを契機として激発下ものと判断される。 — 木戸田四郎(1959)"明治九年の農民一揆"(堀江英一・遠山茂樹 編『自由民権期の研究 第一巻 民権運動の発展』有斐閣)45 - 50ページ

脚注

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注釈

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  1. ^ 実教出版『日本史B 新訂版』(平成19年3月22日検定済、平成20年1月25日発行)では「伊勢暴動・真壁騒動が発生」と記述している

出典

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  1. ^ a b 茨城県立小瀬高等学校 竹本信雄"小瀬一揆物語"2004年2月14日(2023年11月17日閲覧。)
  2. ^ 有元(1968):608 - 609ページ
  3. ^ 有元(1968):600ページ

関連項目

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外部リンク

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