真恵
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時代 | 鎌倉時代末期 - 南北朝時代初期 |
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生誕 | 弘安2年(1279年)? |
死没 | 貞和3年5月16日(1347年6月25日)? |
官位 | 雑訴決断所奉行(法体のまま) |
主君 | 後醍醐天皇→足利尊氏 |
氏族 | 明法道中原氏章直流 |
父母 | 中原章継 |
兄弟 | 章任、是円、真恵 |
特記 事項 | 生没年は弘安5年(1282年)生・興国7年/貞和2年(1346年)没とする説も有り |
真恵(しんえ/しんね)は、南北朝時代の明法家(法学者)。俗姓は中原氏。兄の是円と共に『建武式目』の制定に関わった。
略歴
[編集]父の中原章継[1]は、中原氏のうち明法道を家学とする系統で、章直流に属す[2]。長兄の中原章任[1]は、法学書『金玉掌中抄』を著した法学者[3]。
後醍醐天皇が建武の新政(1333–1336年)を開始すると、建武 (日本)元年(1334年)8月に雑訴決断所が8番制に再編された際、その5番に務めた[1]。次兄の是円も2番に属している[1]。建武3年11月7日(1336年12月10日)、兄の是円と共に室町幕府の基本法『建武式目』を足利尊氏に勘申した[1][4]。
貞和3年5月16日(1347年6月25日)に数え69歳で没[1][5]。一方、貞和2年(1346年)に数え65歳で没という説もある[6]。
なお、かつては二階堂氏出身とする説があったが、後に誤りであると判明している[6]。