矢島守一
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矢島 守一(やじま もりかず、1845年(弘化2年) - 1922年(大正11年))は、明治時代に活躍した陸地測量師(陸軍技師)。現在の石川県出身。日露国境画定事業に際して天文測量を担当し、初めての国際的な測量事業に尽力したことで知られる。
経歴
[編集]弘化2年に金沢藩士の家に生まれる。明治7年2月2日陸軍省十一等出仕[1]、参謀局第六課(測量課)創設時から天文測量、基線測量と一、二等三角測量に従事し、特に基線測量と天文測量で実績を残している。明治16年から17年にかけて、一等三角網における海軍観象台(後の日本経緯度原点の所在地)を原点とする方位角の決定を行い、三角測量の計算原子を構築した。
1886年(明治19年)5月22日、陸軍六等技師(奏任官)となる[2]。1889年(明治22年)4月17日陸地測量師を任ぜられ[3]、1895年(明治28年)12月28日高等官六等に陞進[4]。1902年(明治35年)2月24日、陸地測量部班長を命ぜられる[5]。
日露戦争後の1905年(明治38年)、ポーツマス条約で樺太の北緯50度以南を日本が領有することとなり、翌1906年(明治39年)5月18日、樺太境界制定委員を仰せつかり[6]、1908年(明治41年)までにかけて、参謀本部陸地測量部の矢島陸地測量師を日本側の測量責任者とし、天文測量による日露両国の国境画定作業が行われた。明治39年12月27日、高等官五等に陞進[7]。
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国境標石 天第一號:日本側
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国境標石 天第一號:ロシア側
1911年(明治44年)11月20日高等官四等に陞進[8]、同28日依願免官[9]となり、1917年(大正6年)11月1日、本邦測量事務調査の嘱託となる。
栄典・授章・授賞
[編集]- 位階
- 1886年(明治19年)7月8日 - 正八位[10]
- 1892年(明治25年)4月1日 - 従七位[11]
- 1896年(明治29年)5月15日 - 正七位[12]
- 1901年(明治34年)8月31日 - 従六位[13]
- 1906年(明治39年)10月20日 - 正六位[14]
- 1911年(明治44年)10月30日 - 従五位[15]
- 勲章等
- 1893年(明治26年)12月28日 - 勲六等瑞宝章[16]
- 1900年(明治33年)12月20日 - 勲五等瑞宝章[17]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲四等瑞宝章、明治三十七八年従軍記章[18]
- 1908年(明治41年)7月13日 - 旭日小綬章[19]
- 外国勲章佩用允許
脚注
[編集]- ^ 「明治7年季 陸軍省日誌 元 元丙 第1号従1月同年第29号至3月(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C08010402600
- ^ 『官報』第867号、明治19年5月25日。
- ^ 『官報』第1739号、明治22年4月20日。
- ^ 『官報』号外、明治28年12月29日。
- ^ 『官報』第5590号、明治35年2月25日。
- ^ 『官報』第6864号、明治39年5月19日。
- ^ 『官報』第7051号、明治39年12月28日。
- ^ 『官報』第8527号、明治44年11月21日。
- ^ 『官報』第8533号、明治44年11月29日。
- ^ 『官報』第931号、明治19年8月7日。
- ^ 『官報』第2625号、明治25年4月2日。
- ^ 『官報』第3862号、明治29年5月16日。
- ^ 『官報』第5451号、明治34年9月2日。
- ^ 『官報』第6995号、明治39年10月22日。
- ^ 『官報』第8510号、明治44年10月31日。
- ^ 『官報』第3152号、明治26年12月29日。
- ^ 『官報』第5243号、明治33年12月21日。
- ^ 『官報』第7098号、明治40年3月1日。
- ^ 『官報』第7514号、明治41年7月14日。
- ^ 『官報』第7468号、明治41年5月21日。