矢田一心斎
表示
この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。 (2017年4月) |
やた いっしんさい 矢田 一心斎 | |
---|---|
生誕 | 1827年(文政10年) |
死没 | 1906年(明治39年)6月20日 |
死因 | 病死 |
住居 | 阿波国麻植郡川島町学島 |
国籍 | 日本 |
別名 |
矢田鉄之助、矢田好男 平正直 |
職業 | 柔術家 |
流派 | 柴真揚流 |
活動拠点 | 徳島県 |
配偶者 | 上野 |
子供 | 矢田三吉(養子) |
親 | 矢田大蔵 |
親戚 |
矢田秀蔵(弟) 矢田元(甥) |
矢田 一心斎(やた いっしんさい、1827年 - 1906年6月20日)は日本の柔術家。
経歴
[編集]文政10年(1827年)に生まれる。初名は鉄之輔(鉄之助)、後好男。平正直とも称した。阿波国麻植郡川島町学島(現・徳島県吉野川市)の人。先祖は上桜城主篠原弾正の家臣矢田一徹である。
嘉永5年(1852年)に修行に出て安房国で柳島信行に神楊心流を学ぶ。
後、浜松で柴新流を藤田銀八郎に学び工夫を加えて柴真揚流と称した。
蜂須賀氏に従い長州征伐に参加。廃藩置県後は徳島県等外三等出仕を命ぜられ、後学島村の村議を勤めた。
脚注
[編集]
参考文献
[編集]- 『阿波人物誌』[要文献特定詳細情報]