矢田穏清斎
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やだ おんせいさい 矢田 穏清斎 | |
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生誕 |
1808年??月??日 (文化5年5月) 京都 |
死没 | 不明 |
国籍 | 日本 |
別名 | 矢田帯刀源徳幸 |
職業 | 武術師範 |
流派 | 神傳不動流 |
運動・動向 | 二卿事件 |
刑罰 |
終身監獄の刑 鹿児島監獄署 |
子供 | 矢田隆男 |
矢田 穏清斎(やだ おんせいさい、1808年 - ?)は、日本の柔術家である。矢田帯刀[1]とも名乗っていた。
経歴
[編集]矢田穏清斎は文化5年5月(1808年)の生まれである[2]。
子の矢田隆男(1847-1923)は、京都の出身であり菊亭家の家臣であった。幕末に矢田穏清斎と共に京都で私塾を開いて柔術と剣術を教えていた。明治に剣槍柔術永続社を開いたことで知られる京都出身の鷲尾隆聚(1843-1912)は矢田穏清斎の門人である。
明治3年7月に矢田穏清斎は、外山家から武術指南役に誘われているが断っている。明治3年10月頃に元隊員の湯川半左衛門に案内されて来訪した和州天川郷(現在の奈良県吉野郡天川村)に滞在して武術を教えた。
明治4年(1871年)の二卿事件で外山家の関係者として捕らえられた。矢田穏清斎は明治4年12月3日に京都において終身監獄の刑となり、明治5年2月に鹿児島監獄署に送られた。明治12年(1879年)71歳で老衰のため放免となった。 子の矢田隆男は青森県に幽閉され明治15年(1882年)に放免となった。
没年は不明。
柔術指南
[編集]矢田穏清斎は京都に私塾を開き神伝不動流という柔術を教えていた。神伝不動流は羽客の矢田半官を流祖としており、九世を経て矢田讃岐守源頼章が諸流を学び神傳慈眼流を開いた後、矢田帯刀源徳幸(矢田穏清斎)に至り神傳不動流と称したとされる[注釈 1]。
夫れ當流の武術は羽客の傳にして矢田半官の創業也 九世を経て後矢田讃岐守源頼章善く天下の諸流を学び悉く其 奥意を極め遂に其妙旨に至りて長を採り短を補ひ亦一家の業を開き始め神傳慈眼流と称ふ 其後源徳幸に至り又神傳不動流と唱ふ[注釈 2]
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 細川家編纂所編『肥後藩国事史料 巻十』侯爵細川家編纂所,1932年 p806「柔術指南 矢田帶刀事 穏清斎」
- ^ a b 『鹿児島県国事犯矢田穏清斎獄則恪守旦老衰ニ付放免』
参考文献
[編集]- 『鹿児島県国事犯矢田穏清斎獄則恪守旦老衰ニ付放免』国立公文書館所蔵
- 『国事犯禁獄囚矢田穏清斎特典放免ノ件』
- 『青森県発配国事犯懲役囚矢田隆男外二名軍事功労アルニ依リ減等』国立公文書館所蔵
- 『国事犯禁獄囚矢田隆男外二名特典減等ノ件』国立公文書館所蔵
- 『神宮神部署主事矢田隆男休職ノ件』国立公文書館所蔵
- 神社新報社 編『神道人名辞典 昭和三十年版』神社新報社、1955年
- 細川家編纂所編『肥後藩国事史料 巻十』侯爵細川家編纂所,1932年 p806
- 綿谷雪,山田忠史 編『増補大改訂 武芸流派大事典』東京コピイ出版部、1978年
- Herman Frederik Carel ten Kate『‘Jujutsu, de ‘zachte kunst’.’』
- 「幻の神傳不動流の謎(前編)」、『秘伝古流武術』1999年4月号、p31、BABジャパン
- 「幻の神傳不動流の謎(後編)」、『秘伝古流武術』1999年6月号、p54、BABジャパン