石井忠義
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 忠吉(『葉隠』)[1] |
戒名 | 金理院殿妙光日明大居士[2] |
墓所 | 佐賀県佐賀市 常照院 |
官位 | 駿河守(受領名) |
主君 | 九州千葉氏→龍造寺康家→家兼 |
氏族 | 肥前石井氏(藤原氏) |
父母 | 父:石井忠保、母:於保鎮宗の娘 |
妻 | 正室:金持保広の娘 |
子 | 忠清、忠繁、義昌、忠本、兼清、高平加賀守室、片田江家定室、久保修理亮室、金持某室、前山某室 |
特記 事項 | 『石井系譜』(佐賀県立図書館鍋島家文庫所蔵)によれば、文明2年(1470年)8月7日に88才で死去したとされるが[3]、誤りと推測されている。 |
石井 忠義(いしい ただよし)は、戦国時代の武将。九州千葉氏および龍造寺氏の重臣[4]。千葉氏の家臣石井式部大輔忠保の嫡男。肥前国佐嘉郡飯盛城主。
来歴
[編集]佐賀県立図書館鍋島家文庫所蔵の『石井系譜』によれば、父は九州千葉氏の家臣・石井式部大輔忠保。母は国衆・於保鎮宗の娘とされる。肥前石井氏の祖である祖父・石井越後守式部大輔忠国は、千葉介の玄孫で、肥前国小城郡司・千葉胤紹や千葉教胤の家老に立身出世した人物である。
千葉氏が内紛により勢力の衰退をみせると、父・忠保は、小城千葉城下の石井屋敷を引き払い、知行地の肥前国佐嘉郡飯盛村に土着して、飯盛城主になり、独立傾向を強めた。
父・忠保の没後、家督を継いで飯盛城主となった忠義は、千葉氏直参の身分を保ちながら、佐賀城主・龍造寺康家と、分家した家兼の父子と懇意になった。
忠義には、嫡男・和泉守忠清(嫡男家)、二男・石見守忠繁(二男家)、三男・三河守義昌(三男家)、四男・駿河守忠本(四男家)、五男・尾張守兼清(五男家)がいたが、それぞれに一家を立てさせて(石井五家)、石井党という同族武士団を形成して、鍋島氏とともに龍造寺氏を佐嘉郡一帯の旗頭として擁立した。
正室は、佐嘉郡の地侍・金持尾張守保広の娘。
なお、『葉隠』では、「石井駿河守忠吉(忠義)、当国石井の元祖」とし、祖父・越後守式部大輔忠国 との混同が見られる。