石山寅吉
石山 寅吉(いしやま とらきち、1890年(明治23年)1月25日[1] - 1937年(昭和12年)5月16日[2])は、大正から昭和前期の労働運動家、農民運動家、政治家。衆議院議員。
経歴
[編集]新潟県中蒲原郡沼垂町[3][4][5](現新潟市)の貧しい農家に生まれる[4]。1896年(明治29年)同県北蒲原郡濁川村(現:新潟市北区濁川)の製綿業・石山家の養子となる[4][5]。しかし養家が倒産したため、樺太、北海道へ出稼ぎに出たが過労のため帰郷[3][4][5]。家業の再興を図るも不首尾で[4]、1915年(大正4年)精練工として足尾銅山に入山した[2][3][4][5]。
1917年(大正6年)足尾労働組合(のち大日本鉱山労働同盟会)の結成に参画した[4][5]。1919年(大正8年)足尾銅山争議を指導[4]。1921年(大正10年)麻生久の応援を得て再び足尾銅山争議を指導し[4]、その後、栃木県下初のメーデーを足尾で主催した[4][5]。1923年(大正12年)から故郷の新潟県で三宅正一、浅沼稲次郎らと農民組合の結成、農民運動の指導に取り組む[4]。1925年(大正14年)足尾立憲公民党を結成し[5]、足尾町会議員に石山を含めて6名が当選した[4][5]。1927年(昭和2年)大屋政夫らと日本労農党栃木県支部を結成し[5]、同年9月の栃木県会選挙で初の無産党県議に当選した[2][4][5][6]。
1928年(昭和3年)足尾鉱業所から石山が解雇され鹿沼町(現鹿沼市)に移住[4][5]。1931年(昭和6年)日光鉱山争議の指導により投獄された[4]。1933年(昭和8年)鹿沼町会議員に当選し[4][5]、上都賀病院の設立に尽力[5]。1937年(昭和12年)4月、第20回衆議院議員総選挙(栃木県第1区、社会大衆党公認)で当選したが[2][3][4][5][7]、市町村議選応援などによる過労のため登院することなく死去した[3][5][8]。
脚註
[編集]参考文献
[編集]- 下野新聞株式会社編『野州名鑑』下野新聞、1931年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第20回』衆議院事務局、1937年。
- 『新潟県大百科事典 別巻』新潟日報事業社、1977年。
- 『栃木県大百科事典』下野新聞社、1981年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『栃木県歴史人物事典』下野新聞社、1995年。