石川光明

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石川 光明(いしかわ こうめい / みつあき、1852年10月1日嘉永5年8月18日) - 1913年大正2年)7月30日)は、明治時代彫刻家[1]。幼名勝太郎。浅草区松山町生まれ。浮き彫りを多用する技巧的作風などで知られた。

略歴[編集]

源義経と家臣を描いた象牙彫刻(1880年頃、明治時代、ウォルターズ美術館蔵)

宮彫師の家に生まれる。祖父・藤吉は浅草寺雷門を手掛けその名を知られたという。数え3歳で父を、9歳で祖父を亡くし、駒形に住む叔父の家で家業の宮彫を習う。1862年文久2年)から絵画を狩野寿信に、1886年(慶応2年)からは牙彫根付師・菊川正光に学ぶ。1878年(明治11年)に旭玉山と共に後の東京彫工会となる彫刻の研究会を始める。1881年(明治14年)の第2回内国勧業博覧会出品の「牙彫魚籃観音像」と「嵌入の衝立」はともに妙技二等賞受賞。1882年(明治15年)に同い年の高村光雲と出会い、互いに良き理解者として親交を深めた。彼らは共に、1890年(明治23年)帝室技芸員(10月2日[2])、東京美術学校教授、文部省の美術展覧会審査員などを歴任し、東京彫工会で近代彫刻の発展に尽力した。

さらに、1893年(明治26年)のシカゴ万国博覧会に出展した「浮彫観音菩薩像」で優等賞を、1895年(明治28年)の第4回内国勧業博覧会に出展した「木彫軍鶏」で妙技二等賞を、1900年(明治33年)のパリ万国博覧会に出展した「古代鷹狩置物」で金賞を、1907年(明治40年)の東京勧業博覧会1910年(明治43年)の日英博覧会に出展した「額面群羊図」で一等賞と名誉金賞を受賞した。このうち「古代鷹狩置物」は今日では光明の代表作であり旭玉山の「官女置物」と並んで明治牙彫の屈指の傑作と評されている[3]

作品[編集]

「野猪」、1912年

脚注[編集]

  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 93頁。
  2. ^ 『官報』第2191号、明治23年10月16日。
  3. ^ 平凡社 別冊太陽217 明治の細密工芸 脅威の超絶技巧! P152、P155
  4. ^ 宮内庁三の丸尚蔵館編集 『三の丸尚蔵館展覧会図録No.68 鳥の楽園─多彩、多様な美の表現』 宮内庁、2015年3月21日、pp.20-21

参考文献[編集]

  • 美術誌「Bien(美庵) Vol.48」 特集「石川光明とデザインで見る象牙彫刻」(藝術出版社、2008年) ISBN 978-4-434-12047-3 C0370
  • 五味聖 「特集 一九〇〇年パリ万国博覧会出品作(三) 石川光明作「古代鷹狩置物」について」『三の丸尚蔵館年報・紀要』第16号、2009年4月、pp.29-36