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石川勝重

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
石川 勝重
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正13年7月17日1585年8月12日
官位 備中守、刑部
主君 長宗我部元親
氏族 伊予石川氏
父母 父:石川通清石川通昌?、母:三好氏女(三好長慶の女か)[1]
兄弟 勝重金子元宅室、松木新之室、宇高佐馬之佐室、河端甚左衛門[2]
香宗我部親泰の女
虎竹
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石川 勝重(いしかわ かつしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将備中石川氏の末裔で、長宗我部氏の家臣。伊予国新居郡高峠城主。

概要

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伊予の金子文書に、年号がないものの、元亀年間以後のものと思われる文書に石川備中守勝重の名前が見え、石川通昌の子とする説がある。

時期は不明だが、松浦周防守盛に宛行状を発給している[3]

天正13年(1585年)の天正の陣の際に戦死したという[2]

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 武田昌憲「山口県文書館蔵(毛利家文庫)『澄水記』(翻刻)[1]
  2. ^ a b 久門範政編『西條市誌』(西條市、1991年)[要ページ番号]
  3. ^ 愛媛県『愛媛県史 資料編 古代・中世』(愛媛県、1983年)[要ページ番号]