石川清隆
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正9年(1581年) |
死没 | 承応4年(1655年) |
別名 | 義助、十郎左衛門、新左衛門、茂助、隆清、ズン坊、道拙 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 加藤嘉明→加藤明成→山内忠義 |
藩 | 伊予松山藩、陸奥会津藩、土佐藩 |
氏族 | 清和源氏|石川氏 |
父母 | 父:石川隆次、母:加藤教明の娘 |
石川 隆次(いしかわ きよたか)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。豊臣秀吉の子飼衆で、賤ヶ岳の七本槍・七将の1人である加藤嘉明の家臣。後に山内忠義の家臣となる。通称は十郎左衛門、新左衛門。妻は野中益継の娘[1]。
生涯
[編集]天正9年(1581年)、三河国で加藤嘉明に仕えていた石川隆次の長男として生まれた。母は加藤教明の娘であり、加藤嘉明の甥にあたる。
慶長5年(1600年)、嘉明の甥にあたることから、徳川家に人質として預けられる。
慶長8年(1603年)、加藤嘉明に仕え、1500石を与えられる。
慶長11年(1606年)、江戸城の普請に参加する。
元和元年(1615年)、加藤嘉明とともに大坂夏の陣に参戦。その後、会津藩において番頭→家老と勤め2000石を与えられる。
寛永20年(1643年)、加藤家において会津騒動が起こり浪人となる。
正保元年(1644年)、山内忠義に呼ばれ土佐藩にて仕官する。妻は山内家家臣の野中益継の娘(山内一豊の姪にあたる)であったことによる縁である。
承応4年(1655年)、土佐にて病死する。
子孫
[編集]加藤家において会津騒動が起こったため、石川家の多くは清隆ついて土佐の山内家に仕官している。石川家は土佐藩において幕末まで仕え続けている。会津騒動後も加藤家では清隆の末子が仕え、代々加藤家の家臣として水口藩にて幕末まで仕え続けている。
系譜
[編集]- 父母
- 兄弟
- 妻子
脚注
[編集]- ^ “国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024年2月24日閲覧。
参考文献
[編集]- 『国立国会図書館デジタルコレクション 本朝武家諸姓分脈系図[96]』2011年 。