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石川清隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
石川 清隆
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 天正9年(1581年
死没 承応4年(1655年
別名 義助、十郎左衛門、新左衛門、茂助、隆清、ズン坊、道拙
幕府 江戸幕府
主君 加藤嘉明加藤明成山内忠義
伊予松山藩陸奥会津藩土佐藩
氏族 清和源氏石川氏
父母 父:石川隆次、母:加藤教明の娘
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石川 隆次(いしかわ きよたか)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将豊臣秀吉の子飼衆で、賤ヶ岳の七本槍七将の1人である加藤嘉明の家臣。後に山内忠義の家臣となる。通称は十郎左衛門、新左衛門。妻は野中益継の娘[1]

生涯

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天正9年(1581年)、三河国で加藤嘉明に仕えていた石川隆次の長男として生まれた。母は加藤教明の娘であり、加藤嘉明の甥にあたる。

慶長5年(1600年)、嘉明の甥にあたることから、徳川家に人質として預けられる。

慶長8年(1603年)、加藤嘉明に仕え、1500石を与えられる。

慶長11年(1606年)、江戸城の普請に参加する。

元和元年(1615年)、加藤嘉明とともに大坂夏の陣に参戦。その後、会津藩において番頭→家老と勤め2000石を与えられる。

寛永20年(1643年)、加藤家において会津騒動が起こり浪人となる。

正保元年(1644年)、山内忠義に呼ばれ土佐藩にて仕官する。妻は山内家家臣の野中益継の娘(山内一豊の姪にあたる)であったことによる縁である。

承応4年(1655年)、土佐にて病死する。

子孫

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加藤家において会津騒動が起こったため、石川家の多くは清隆ついて土佐の山内家に仕官している。石川家は土佐藩において幕末まで仕え続けている。会津騒動後も加藤家では清隆の末子が仕え、代々加藤家の家臣として水口藩にて幕末まで仕え続けている。

系譜

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父母
兄弟
妻子

脚注

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  1. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024年2月24日閲覧。

参考文献

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