石川盛行
表示
時代 | 江戸時代中期 |
---|---|
生誕 | 寛文4年(1664年) |
死没 | 享保15年(1730年)11月23日 |
別名 | 一学、助之進、織部、一無(法名) |
墓所 | 浄心寺 |
官位 | 従五位下・摂津守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家宣 |
氏族 | 清和源氏満季流奥氏→石川氏 |
父母 | 父:奥保之、母:下村頼母介某 |
子 | 養子:盛之、保和、土屋正慶室、田中勝芳室、安藤定供室、高林昌雄室 |
概要
[編集]父は近衛家に仕えた奥藤大夫保之、母は近衛家の家司であった下村頼母介某の娘。奥氏は清和源氏満季流とされる[1]。
母は近衛煕子の乳母であった。煕子は延宝7年(1679年)6月に甲府藩主であった徳川綱豊(後の家宣)と縁組し、12月1日に甲府家の上屋敷である桜田御殿に入った。盛行と母は江戸に下向した煕子に同行し、桜田御殿で小姓組を勤め、後に奏者番へと転じた。
宝永元年(1704年)12月には、綱豊が名を「家宣」と改め、叔父の第5代将軍・徳川綱吉の世子として江戸城西の丸へ迎えられると、煕子は御簾中として西の丸の大奥へ入った。盛行はこれに相伴し、12月12日には桐問番の組頭となり、蔵米500俵を賜り、同月22日には布衣を着することを許された。同3年(1706年)8月3日には武蔵国多摩郡・相模国鎌倉郡・高座郡に合計500石の知行地を賜った。翌年(1707年)7月13日には西の丸の桐問番の頭となり、従五位下・摂津守に叙任された。後には江戸城の本丸に勤務した。同7年(1710年)には母が没したことで、閏8月2日に蔵米と月俸を知行地に改めて、高座郡内の200石を新たに加えられた。正徳3年(1713年)5月18日には桐問番が廃止されたことで寄合となり、享保11年(1726年)4月26日に致仕した。この際、家宣から和歌を賜ったという。同15年(1730年)11月23日に66歳で死去し、深川の浄心寺に葬られた[2]。
子供
[編集]実子はおらず、養子には神尾弥五兵衛某の子である盛好、近衛家の家司・下村頼母介高峰の子である保和・土屋正慶室・田中勝芳室・安藤定供室・高林昌雄室がいる[3]。