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石川盛行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
石川盛行
時代 江戸時代中期
生誕 寛文4年(1664年
死没 享保15年(1730年)11月23日
別名 一学、助之進、織部、一無(法名)
墓所 浄心寺
官位 従五位下・摂津守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家宣
氏族 清和源氏満季奥氏石川氏
父母 父:奥保之、母:下村頼母介某
養子:盛之保和土屋正慶室、田中勝芳室、安藤定供室、高林昌雄
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石川 盛行(いしかわ もりゆき)は、江戸時代武士

概要

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父は近衛家に仕えた奥藤大夫保之、母は近衛家の家司であった下村頼母介某の娘。奥氏清和源氏満季流とされる[1]

母は近衛煕子乳母であった。煕子は延宝7年(1679年)6月に甲府藩主であった徳川綱豊(後の家宣)と縁組し、12月1日に甲府家の上屋敷である桜田御殿に入った。盛行と母は江戸に下向した煕子に同行し、桜田御殿で小姓組を勤め、後に奏者番へと転じた。

宝永元年(1704年)12月には、綱豊が名を「家宣」と改め、叔父の第5代将軍・徳川綱吉世子として江戸城西の丸へ迎えられると、煕子は御簾中として西の丸の大奥へ入った。盛行はこれに相伴し、12月12日には桐問番の組頭となり、蔵米500俵を賜り、同月22日には布衣を着することを許された。同3年(1706年)8月3日には武蔵国多摩郡相模国鎌倉郡高座郡に合計500石の知行地を賜った。翌年(1707年)7月13日には西の丸の桐問番の頭となり、従五位下・摂津守に叙任された。後には江戸城の本丸に勤務した。同7年(1710年)には母が没したことで、閏8月2日に蔵米と月俸を知行地に改めて、高座郡内の200石を新たに加えられた。正徳3年(1713年)5月18日には桐問番が廃止されたことで寄合となり、享保11年(1726年)4月26日に致仕した。この際、家宣から和歌を賜ったという。同15年(1730年)11月23日に66歳で死去し、深川浄心寺に葬られた[2]

子供

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実子はおらず、養子には神尾弥五兵衛某の子である盛好、近衛家の家司下村頼母介高峰の子である保和土屋正慶室・田中勝芳室・安藤定供室・高林昌雄室がいる[3]

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 黒田甲子郎『奥元帥伝』(国民社、1933年)
  2. ^ 寛政重修諸家譜[1]
  3. ^ 寛政重修諸家譜[2]