石川県西田幾多郎記念哲学館
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石川県西田幾多郎記念哲学館 Ishikawa NISHIDA KITARO Museum of Philosophy | |
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正面入口 | |
施設情報 | |
正式名称 | 石川県西田幾多郎記念哲学館[1] |
前身 | 西田記念館 |
来館者数 | 22,000人(2010年(平成22年))[2] |
館長 | 浅見洋 |
事業主体 | かほく市[1] |
建物設計 | 安藤忠雄建築設計研究所[3] |
延床面積 | 2,952m2[4] |
開館 | 2002年(平成14年)6月8日 |
所在地 |
〒929-1126 石川県かほく市内日角井1番地[1] |
位置 | 北緯36度42分51秒 東経136度41分38秒 / 北緯36.71417度 東経136.69389度座標: 北緯36度42分51秒 東経136度41分38秒 / 北緯36.71417度 東経136.69389度 |
アクセス | JR七尾線宇野気駅から徒歩20分 |
外部リンク | 石川県西田幾多郎記念哲学館オフィシャルサイト |
プロジェクト:GLAM |
石川県西田幾多郎記念哲学館(いしかわけんにしだきたろうきねんてつがくかん)は、石川県かほく市に所在する西田幾多郎に関する文化施設である。
概要
加賀国河北郡森村[5](現:石川県かほく市森)出身の西田幾多郎の遺徳を顕彰し、哲学の普及・啓発を図ることを目的[1]として、2002年(平成14年)に当時の宇ノ気町が設置した。2004年(平成16年)の市町村合併後は、かほく市が設置・運営を行っている[1]。なお前身は1968年(昭和43年)に設立された宇ノ気町立西田記念館である。
施設
施設の設計は安藤忠雄。日本海に面した内灘砂丘にあり、丘陵地の斜面を利用した広く長い階段庭園と、丘陵上に立つガラス張りの施設の外観が特徴である。2002年(平成14年)に石川県の「第9回いしかわ景観大賞」を受賞している[3]。
建物は「哲学館」と「研修棟」からなる。哲学館は、地下1階、1階、2階にそれぞれ展示室があり、西田幾多郎の遺品や原稿、書などが展示されている。また、地下1階には「空の庭」と呼ばれる四方を壁に囲まれた天井のない吹き抜けがあり、四角に切り取られた空を見ながら思索に耽ることが想定されている。
研修棟は、地下1階にホール(哲学ホール)、1階に図書室、2階に喫茶室、3階に研修室(和室)、4階に研修室(会議室)、5階に展望ラウンジがある。また、地下1階に「ホワイエ」と呼ばれる円形の屋内空間があり、「空の庭」とは対照的に、ガラスの天窓から丸く切り取られた空を見ることができる。
大規模な改装を行い、2015年(平成27年)3月21日に新装開館した[6]。
文化財
- 登録有形文化財
- 1923年(大正12年)京都市に建てられた西田幾多郎邸の洋室部。1974年(昭和49年)に西田邸が取り壊される際、書斎「骨清窟(こっせいくつ)」が旧西田記念館横に移築された。その後、2010年(平成22年)に石川県西田幾多郎記念哲学館の敷地内に修復・移築されたものである[8]。
- かほく市指定文化財
- 西田幾多郎真筆 - 1969年(昭和44年)4月1日指定[9]
- 西田幾多郎原稿 - 1969年(昭和44年)4月1日指定[9]
- 西田幾多郎書簡 - 1969年(昭和44年)4月1日指定[9]
- 西田得登書屏風六面 - 1969年(昭和44年)4月1日指定[9]
周辺施設
交通アクセス
- JR七尾線宇野気駅から徒歩20分
- のと里山海道白尾インターチェンジから車3分
脚注
- ^ a b c d e 「石川県西田幾多郎記念哲学館条例」かほく市
- ^ 「統計からみた石川県の観光 平成22年」石川県 (PDF)
- ^ a b 「第9回いしかわ景観大賞 西田幾多郎記念哲学館」石川県
- ^ 「石川県西田幾多郎記念哲学館」石川県
- ^ 概要・ごあいさつ. 石川県西田幾多郎記念哲学館
- ^ 高橋淳(2015年3月21日). “西田の素顔 より身近に 哲学館がリニューアル”. 北陸中日新聞 (中日新聞社)
- ^ 「西田幾多郎書斎骨清窟」国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ 「西田幾多郎哲学館に書斎移築 かほく市、補修後に」『北國新聞』2009年6月8日
- ^ a b c d 「かほく市内の指定文化財一覧」かほく市
関連文献
- 上杉知行『西田幾多郎の生涯』燈影舎〈燈影撰書〉、1988年 - 旧西田記念館長による伝記
関連項目
- 金沢ふるさと偉人館 - 金沢市が設置する文化施設。西田幾多郎も金沢ゆかりの偉人として紹介されている。
- 鈴木大拙館 - 金沢市が設置する鈴木大拙に関する文化施設。仏教学者である鈴木大拙は、西田幾多郎の石川県専門学校(後の旧制第四高等学校、現:金沢大学)時代の学友で、同じく学友の国文学者藤岡作太郎とともに、3人は「加賀の三太郎」と称された。