石川総氏
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛永3年(1626年) |
死没 | 元禄15年1月2日(1702年1月29日) |
別名 | 半太郎 |
戒名 | 嶺久院殿有閑日翁 |
墓所 | 東京都北区田端の大久寺 |
官位 | 従五位下、市正 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川家綱→綱吉 |
氏族 | 本姓:清和源氏 |
父母 | 父:石川忠総、母:堀尾吉晴の娘 |
兄弟 |
廉勝、総長、貞當 恭総、邦総、総氏、女子(中川久清室) |
妻 | 正室:高木正弘の娘 |
子 | 総昌、某(隼人)、芦田賢詮(福井藩家老芦田家養子)、女子(北条氏澄室) |
石川 総氏(いしかわ ふさうじ)は、江戸時代前期の旗本。総氏系石川家は三河国額田郡保久村(現愛知県岡崎市保久町字中村)に陣屋が置かれたことから保久石川家(ほっきゅういしかわし)とも呼ばれ、その家系は明治維新まで旗本家として続いた。
生涯
[編集]寛永3年(1626年)下総国佐倉藩主となった石川忠総の七男として誕生。母は堀尾吉晴の娘。
寛永13年3月25日(1636年4月30日)将軍徳川家光に拝謁し、寛永18年8月(1641年9月)家光の嫡男徳川家綱誕生の後家綱に仕える。家綱加冠の儀に際し、総氏は末広(扇)を持ち供奉したことが記録されている[1]。
正保2年(1645年)従五位下市正に叙任。慶安3年12月(1651年2月)父忠総が死去した翌年の慶安4年4月4日(1651年5月23日)に父遺領の内より三河国額田郡・加茂郡の内で3千石が分与された。延宝5年4月(1677年5月)小姓頭を拝命、延宝8年5月(1680年6月)家綱逝去後の天和2年4月(1682年5月)上野国・下野国内で1千石の加増を受けた。
貞享4年11月(1687年12月)職を辞し旗本寄合席に列する。元禄8年7月(1695年8月)病により致仕し、家督を嫡男である総昌に譲り剃髪した。
元禄15年1月2日(1702年1月29日)築地萬年橋の屋敷にて死去した。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『新訂 寛政重修諸家譜 第3』続群書類従完成会、1981年
- 『石川家先祖覚書』
- 『石川家由来』
- 『石川家系譜』
- 『石川家譜』
- 『石川家譜難波録』