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石川覚七郎衛門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

石川 覚七郎衛門(いしかわ かくひちろうえもん、1906年明治39年)8月21日 - 1981年昭和56年)4月30日)は、日本教育学者勲等勲三等瑞宝章熊本大学教授。

熊本県立八代高等女学校、熊本県立青年学校教員養成所教諭、熊本青年師範学校教授、熊本大学教育学部教授、熊本音楽短期大学教授、九州女学院短期大学教授などを歴任した。

来歴

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生い立ち

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熊本市下職人町に亀井豊作の四男として生まれる。1931年(昭和6年)第五高等学校文化乙類を卒業後、東京帝国大学文学部宗教史宗教学科入学。1932年(昭和7年)石川サイと結婚し石川姓となる。1933年(昭和8年)教育学科に転科。1936年(昭和11年)同大学教育学科卒。

教育者として

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熊本県立八代高等女学校にて勤務を経て、熊本県立青年学校教員養成所教諭、熊本青年師範学校教授、熊本大学教育学部教授などを歴任した。1972年(昭和47年)熊本大学を定年退職した後、熊本音楽短期大学教授、九州女学院短期大学教授として図書館長などを務める。1981年4月30日、北海道札幌市の長女宅で療養中のところ心不全にて死去。歿日付で勲三等瑞宝章を授与される。

家族・親族

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兄に亀井通産株式会社三代目社長の亀井覚八郎亀井ランチ創業者の亀井起興嗣。従兄に万葉学者の森本治吉がいる(父豊作の弟、ハル吉が森本家の養子となった)。子は娘4人。長女の夫は北海道大学名誉教授の安田寿一。三女の夫は京都大学名誉教授の薗田担。四女の夫は東京大学名誉教授の豊岡照彦[1]

著作

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  • 青年学級の研究 : 熊本県に於ける実態調査(熊本大学教育学部紀要 1957年
  • 社会教育法の改正について(熊本大学教育学部紀要 1960年
  • 青年学級の問題(熊本大学教育学部紀要 1963年
  • 青年集団の変容とその教育(熊本大学教育学部紀要 1965年

脚注

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  1. ^ 石川サイ『武夫原頭に草もえて : 石川覚七郎衛門追悼集』大宝印刷株式会社、1982年4月。