石抹海住
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石抹 海住(せきまつ カイジュ、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えた契丹人の一人。
『元史』には立伝されていないが、『至正集』巻52碑志9故征南千戸蕭公神道碑銘に孫の石抹世昌とともにその事蹟が記される。『新元史』には故征南千戸蕭公神道碑銘を元にした列伝が記されている。
概要
[編集]石抹海住はキタイ帝国(遼朝)の歴代皇后を輩出した審密=石抹氏(漢風には蕭氏)[1]の出であった。金朝の正隆年間に清平に移住した一族の出で、漢風に徳亨という諱、仲通という字も持っていたが、一般に海住という小字で知られていたという[2]。
モンゴル帝国による金朝侵攻が始まると、石抹海住は左翼万人隊長ムカリに降って館陶招撫使とされた。磁州の攻略には一人として無用な殺戮はせず、鹿邑・太康で得た5千人の捕虜を解放した逸話で知られる。彰徳の攻略に功績を挙げた後、奉国上将軍・彰徳路総管兼行軍総帥府事とされ、以後石抹海住の一族は彰徳に移り住んだ。死後は息子の石抹珪が後を継ぎ、征南千戸となった[3]。
脚注
[編集]- ^ 愛宕は審密=石抹氏はシャルムート(šarmut/sirmut)、すなわち「牛」をトーテムとする氏族であることを意味する名称に由来するものであると推測する(愛宕1995,33-34頁)。
- ^ 『至正集』巻52碑志9故征南千戸蕭公神道碑銘,「公諱世昌、字栄甫、系出遼右族述律氏。後賜姓蕭、至金更姓石抹氏。居湟霫至阿梭児、為郡牧使。金正隆間、子孫移戍清平杏園、又為清平人。郡牧生致脳児、贈鎮国上将軍・正騎都尉。河南県開国子子□□□□得百本贈輔国上将軍・軽車都尉・河南県開国伯。公高祖也、曾祖套撒児、奉国上将軍・護軍河南郡開国侯。祖徳亨、字仲通、以小字海住行」
- ^ 『至正集』巻52碑志9故征南千戸蕭公神道碑銘,「祖徳亨、字仲通、以小字海住行。我元弔伐之初、隷行将太師承制、拝館陶招撫使。取磁州、未嘗戮一人。河南得鹿邑・太康生口五千餘人、悉縦遣之。復彰徳有功、遷奉国上将軍・彰徳路総管兼行軍総帥府事。用是得贈三世因占籍彰徳焉。考珪佩金符、征南千戸配耶律氏」