石橋尚義
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天正5年(1577年)? |
別名 | 久義 |
氏族 | 石橋氏(塩松石橋家) |
父母 | 父:石橋定義 |
子 | 景義、泉胤秋室 |
石橋 尚義(いしばし ひさよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。石橋氏(塩松石橋家)最後の当主。陸奥国安達郡塩松城主。
略歴
[編集]石橋定義の子として誕生。
天文11年(1542年)、奥州諸大名を巻き込んだ伊達氏の天文の乱において、尚義は当初伊達稙宗方に立って参戦したが、後に晴宗方に転じた。この間に石橋氏の重臣大内義綱が家中での力を強め、尚義を圧倒するようになり、天文19年(1550年)には義綱によって塩松城二の丸に幽閉され、重臣の石橋四天王(大内・大河内・石川・寺坂)に実権を奪われた。
永禄11年(1568年)、隣国の田村氏に通じた大内義綱・石川有信らによって、尚義は塩松城から追放され塩松石橋氏は滅亡した。
牢人となった尚義は天正5年(1577年)に死去したという。相馬領に逃れた娘は後に相馬家重臣・泉大膳(胤秋)の室となった。