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石橋思案

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

石橋 思案(いしばし しあん、1867年7月3日慶応3年6月2日) – 1927年昭和2年)1月28日)は、日本小説家。本名、助三郎横浜弁天町生れ。東京帝国大学中退。

尾崎紅葉らとともに硯友社を創設し「我楽多文庫」を発行。「乙女心」「わが恋」「京鹿子」などを発表したが振るわず、後に博文館に入社し、『文芸倶楽部』を編集した。「雨香」とも号し、また都々逸では「自劣亭」の号を用いて活躍した。

経歴

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1867年(慶応3年)6月2日、横浜弁天町石橋政方の長男として生れる。父・政方は外務省官吏。祖父は長崎通詞で、石橋助左衛門といった。幼少時に上京し神田に住む。お茶の水の師範学校附属小学校に通い、1878年(明治11年)、学習院に入学。このころ川上眉山と知り合い、進文学舎を経て入った大学予備門では、同期に尾崎紅葉がいた。東京帝国大学法科に進学したが、文科に移った後退学。

硯友社社友。後列左より武内桂舟、川上眉山、江見水蔭。前列左より巌谷小波、石橋思案、尾崎紅葉。1891年

1885年(明治18年)、紅葉、山田美妙丸岡九華らと文学結社である硯友社を結成し[1]、「我楽多文庫」を発行する。これに処女作「仇桜遊里廼夜嵐」を発表した。當時雨香と号していたが、石橋思案を筆名とし(思案とは、父祖の故郷長崎にある思案橋に因む)、「花盗人」(1889年)、「乙女心」(1889年)、「京鹿子」、「わが恋」(1894年)などの小説を執筆した。一方、自劣亭と号し都々逸でも活躍した(「我楽多文庫」が都々逸を掲載するのをやめる際、廃止反対をしている)。

だが戯作臭の強い作品は読者に受け入れられず、1895年(明治28年)、博文館より『文芸倶楽部』が創刊されるにあたって編集主任を任された。この後、「いさみ新聞」、「名古屋中京新聞」、「團々珍聞」と渡り歩き、「中央新聞」では主任、「読売新聞」では社会部長となる。1903年(明治36年)、再び博文館に入り、『文芸倶楽部』の編集にたずさわった。1916年(大正5年)、博文館を退社、1927年(昭和2年)1月29日、脳溢血のため死去した。

福田恆存年譜には、思案が恆存の名付け親だと書かれている。

著書

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単著

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  • 『京かのこ』昌盛堂〈小説群芳 2〉、1890年2月。NDLJP:886054 
  • 『探偵小説 電気の死刑』春陽堂〈探偵小説 第3集〉、1893年1月。NDLJP:878495 
  • 『探偵小説 やれ手紙』春陽堂〈探偵小説 第5集〉、1893年3月。NDLJP:876678 
  • 『滑稽小児四十八癖』博文館〈幼年玉手函 第9編〉、1894年8月。 
  • 『寧馨児』博文館〈少年文学 第30編〉、1894年9月。 
  • 『花盗人』駸々堂、1895年12月。NDLJP:887821 
  • 『筆と紙』博文館、1900年12月。NDLJP:889245 

編集

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校訂

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  • 『落語全集』博文館〈続帝国文庫 第18編〉、1899年11月。 
    • 『落語全集』(第4版)博文館〈続帝国文庫 第18編〉、1905年4月。NDLJP:1882669 
  • 川上眉山『眉山美文集』博文館、1912年9月。 

共著

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  • 漣山人、思案外史『従五位』春陽堂〈新小説 第2年 第2巻〉、1897年9月。NDLJP:886691 

関連

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脚注

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  1. ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、103頁。 

外部リンク

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