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石河政平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
石河政平
時代 江戸時代後期 - 末期(幕末
生誕 寛政12年(1800年
死没 不詳
別名 数馬(通称)
官位 従五位下、山城守、土佐
幕府 江戸幕府
主君 徳川家慶家定家茂
氏族 石河氏
父母 父:石河政央
政徳
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石河 政平(いしこ まさひら)は、江戸時代後期の旗本

生涯

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石高は2700石。文化5年(1808年)に父・政央の跡を継ぐ。西ノ丸目付、長崎表御取締御用、京都町奉行、小普請奉行、作事奉行などを歴任した後、天保14年(1843年)閏9月20日、勘定奉行となり、海防掛を兼ねる。安政2年(1855年)8月9日、勘定奉行を辞任し、一橋家家老となる。安政4年(1857年)6月22日に側衆となる。

安政5年(1858年)7月6日、職務怠慢につき御役御免・寄合差控を申し付けられ、安政6年(1859年)10月27日、石高のうち700石を召し上げられる。同年12月19日には差控解除となるが、12月29日に子の政徳が家督を継いだ。

御役御免となった同日には若年寄・本郷泰固が罷免・減封されているが、職務怠慢とは表向きで、実は同じく一橋派であったためではないかと推測される。

参考文献

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  • 河原芳嗣『江戸の旗本たち』(アグネ技術センター、1997年)200-202頁