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石脇城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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石脇城
静岡県
城郭構造 平山城
天守構造 なし
築城主 今川氏または伊勢盛時
築城年 1476年(文明8年)前後?
主な改修者 不明
主な城主 伊勢盛時
廃城年 1487年(長享元年)頃?
遺構 土塁、曲輪、竪堀、虎口
指定文化財 未指定
登録文化財 未登録
再建造物 標柱、解説板あり
位置 北緯34度53分19.1秒 東経138度19分27.1秒 / 北緯34.888639度 東経138.324194度 / 34.888639; 138.324194座標: 北緯34度53分19.1秒 東経138度19分27.1秒 / 北緯34.888639度 東経138.324194度 / 34.888639; 138.324194
地図
石脇城の位置(静岡県内)
石脇城
石脇城
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石脇城(いしわきじょう)は、静岡県焼津市石脇下字山崎にあった日本の城。1476年(文明8年)頃から1487年(長享元年)にかけて伊勢新九郎盛時(のちの北条早雲)が滞在した城とされる[1]

概要

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静岡県中部、静岡平野志太平野を分断する山塊の一峰、高草山の南側山裾から、瀬戸川沖積地へ張り出す標高20~30メートルの小丘を縄張とする平山城である。曲輪があった平坦面は「城山八幡宮」と「大日堂」と言う寺社の堂宇が建てられているが、その背後などに腰曲輪、土塁竪堀虎口などの遺構が残存する[2][3]

伊勢盛時(北条早雲)は、駿河守護今川義忠の正室北川殿の弟(または兄)であり、1476年(文明8年)に今川義忠が戦死し後継争いの内紛が発生した際、幕府の命により駿河に下向している。伊豆国江梨郷の鈴木氏文書に『早雲寺殿様、駿州石脇御座候[4]』とあることから、当城が盛時の居城であったと考えられている[3]

盛時は義忠の子・龍王丸(今川氏親)の擁立に成功し、1487年(長享元年)には龍王丸の政敵小鹿範満を討って富士郡下方荘を与えられ、駿河東部へ移動したと考えられることから、石脇の廃城はこの頃と考えられているが[1]、引き続き当城に居住したとする説もある[5]

脚注

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  1. ^ a b 平井ほか 1979, p. 125.
  2. ^ 静岡県教育委員会 1981 pp.253-254
  3. ^ a b 水野 2012, p. 188.
  4. ^ 『焼津市史資料編』 2006 史料88
  5. ^ 黒田 2013, p. 21.

参考文献

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  • 平井聖ほか 編「石脇城」『日本城郭大系第9巻 静岡・愛知・岐阜』新人物往来社、2012年。 
  • 静岡県教育委員会文化課 編〈静岡県文化財調査報告書 第23集〉1981年。 
  • 焼津市史編纂委員会 編『焼津市史 資料編2』焼津市、2006年。 
  • 水野茂 著「石脇城」、『静岡県の城跡』編纂委員会 編『静岡県の城跡-中世城郭縄張図集成-』静岡古城研究会、2012年。 
  • 黒田基樹 著「伊勢宗瑞論」、黒田基樹 編『伊勢宗瑞』戎光祥出版〈シリーズ中世関東武士の研究・第10巻〉、2013年。 

関連項目

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