石谷澄清
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 享保14年(1729年) |
死没 | 安永9年1月24日(1780年2月28日) |
別名 | 五右衛門、十蔵 |
戒名 | 義豊 |
幕府 | 江戸幕府 |
氏族 | 石谷氏 |
父母 | 父:石谷眞清 |
兄弟 | 石谷澄清、斧之助 |
妻 | 坪内定堅の娘 |
子 | 石谷因清、女子(坪内定安の妻) |
生涯
[編集]延享元年(1744年)12月22日、父である石谷眞清の遺跡を継いだ。宝暦6年(1756年)4月10日に御小姓組に列し、宝暦8年(1758年)12月12日に中奥の番士となり、宝暦11年(1761年)6月に遠江国の領地を割って、上総国長柄・山邊両郡に移されたという。明和8年(1771年)5月1日に御徒頭となり、同年12月18日には布衣の着用を許されたという。安永3年(1774年)2月15日、西城の御目付となる。安永6年(1777年)11月25日に西城の御先鉄砲頭となり、安永7年(1778年)5月6日、務めを辞して寄合に移った。
子女
[編集]- 石谷因清
- 石谷清昌の娘を妻とした。御小姓組の番士となる。
- 女子
- 坪内主税定安の妻となる。
参考文献
[編集]- 『新訂寛政重修諸家譜14』