破山海明
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破山海明 | |
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1597年-1666年 | |
名 | 蹇棟宇 |
号 | 旭東 |
生地 | 順慶府広安州大竹県 |
宗派 | 臨済宗 |
寺院 | 双桂堂 |
師 | 天通密雲 |
弟子 | 丈雪通酔 |
著作 |
『破山禅師語録』 『双桂草』 |
破山海明(はざん かいめい、1597年 - 1666年)は、中国の明末清初の臨済宗の禅僧。字は懶愚、号は旭東。俗姓は蹇、名は棟宇。順慶府広安州大竹県の出身。本貫は渝州巴県[1][2]。
略歴
[編集]1597年(万暦25年)、蹇弘と徐氏のあいだの子として生まれた[1][2]。14歳で両親を亡くした。
19歳で地元の寺院にて出家得度[1][2]。1616年(万暦44年)、破山海明は四川を出て、至るところで遊学している[1]。1619年(万暦47年)、破山海明は蘄州黄梅県破頭山に来て庵を結び、四祖寺、東禅寺で参禅し、仏経と高僧語録を読む[1][2]。破山海明は明朝江山が没落し、山河が砕け、「破山」と名づけた[1]。1622年(天啓2年)、破山海明は杖をついて東遊し、寧波府鄞県に来て、天童寺の高僧の天童密雲禅師のもとに入りました[1]。「臨済正宗第36代祖師」です[1]。1632年(崇禎5年)、破山海明は天童密雲を別れて、西は四川に帰って、相前後して万県の広済寺で、梁山県の太平寺、万年寺は経説を話して、経書を出版して、禅院を振興します[1]。破山海明は反清復明の将の姚玉麟の招待を受けて、夔州府梁山県に帰りました[3]。姚玉麟屯兵の地である金城山伝法です。1653年(順治10年)、破山海明は梁山県万竹山で双桂堂を建て始め、自ら門聯を書きました。「二株嫩桂久昌昌、正快時人鼻孔;数畝荒田暫住住、稍安学士心腸」。寺院は「西南叢林の首」、「第一禅林」、「宗門の巨擘」と誉められています[1]。1666年(康熙5年)、享年69(満68歳没)で入滅。
著作
[編集]- 『破山禅師語録』
- 『双桂草』
代表作
[編集]自賛詩:
「 | 這个川老蜀、渾無奇特処。問禅禅不知、問教教非熟。懶散三十年、人天忽推出。握条短杖藜、打仏兼打祖。 | 」 |
『破山禅師語録』巻九「示空外禅人」:
「 | 天地間為人、為到出家地歩、極快活、極自在、無栄与人、無辱与人、天子不臣、諸侯不友、嘯傲雲山、吃清茶、飲清水、楽時曲、虎鹿為隣、松竹為伴、眼界自清、不同俗塵、通身徹底、唯一天真、天真之趣、花笑鳥鳴。 | 」 |
関連項目
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 熊少華 (2019). 『破山禅師評伝』. 重慶市: 重慶出版社. ISBN 9787229140908
仏教の称号 | ||
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先代 天童密雲 |
臨済宗第36代祖師 1622年–1666年 |
次代 丈雪通酔 |