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磯村春子

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磯村 春子(いそむら はるこ、1877年3月16日- 1918年1月31日[1])は、明治大正期の新聞記者NHK朝の連続テレビ小説はね駒』(1986年前期作品)の主人公のモデルともなった[2]。長男は、国際東アジア研究センター名誉所長や東洋大学学長などを務めた磯村英一(1903- 1997)[3]

来歴

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1877年(明治10年)、小泉伊助とカツの長女として[1]福島県相馬郡中村町(現・相馬市)に生まれる[4]

宮城女学校(現・学校法人宮城学院)に入学。母校は1886年(明治19年)に創立されたばかりのキリスト教系の学校で、日本のキリスト教者の押川方義牧師等がアメリカ合衆国の改革派教会宣教師ウィリアム・E・ホーイと開いた[注釈 1]。初代校長のエリザベス・R・プールボー宣教師 (Elizabeth R. Poorbaugh) が開学の年に就任して女子教育を始め[注釈 2]、春子も英語を中心に学んで卒業、同校で教鞭をとった[8]。ちなみに同校は評価を高めると1911年に認可を受け高等女学校となる[9][10]

実業家の磯村源透[1]と結婚すると同時に上京。日本女子大学校(現・日本女子大学)や、女子英学塾(現・津田塾大学)に通ったともいわれる[8]

1905年(明治38年)、報知社(現・報知新聞社[11]に入社、堪能だった英語を活かして来日した外国人を取材することもあった。磯村本人も外国要人を英語で取材した場面を、著書『今の女』の付録「婦人記者の十年」[12]などに入社した年にさかのぼって回想している。

磯村は子育てをしながら記者生活を送り[4]1910年9月8日には、山田猪三郎の開発した初の国産飛行船(山田式1号飛行船)の浮揚実験に記者として同乗、日本の女性記者の航空取材のさきがけとなった[8]。後に、やまと新聞に移籍。日本近代小説の英訳を志したとされるが[1]、刊行されていない。

1918年(大正7年)、41歳で病のため死去。生涯で8人の子をもうけた[3]。墓所は中野区高徳寺

米艦隊の歓迎

1908年 (明治41年) 、アメリカ艦隊の来航[注釈 3]に先立って親善の一行が来日し、外務省歴史資料センターに保管された「各国艦隊週航関係雑件米国ノ部一」(資料番号5-020)に各新聞の明治41年8月初旬から9月半ばの切抜きがある。9月9日付けの記事は磯村春子と思われる報知新聞の記者が書き、ほぼ1面をあてて横浜港に到着した直後の12名の艦長夫人たちと子ども4名のようすを報じている[14][15]

同年9月26日に来賓の艦長夫人や将校夫人ほかを接伴したときが取材記者・磯村春子の初舞台であり[12]、親善の一行が日本橋の三越呉服店に招かれると着物姿で記念撮影をしたり日本食を味わったりする写真に写っていることから、おそらく来賓の接待役だったと推察される[注釈 4]。歓待ぶりは翌9月27日の『東京日日新聞』ほか新聞各紙が掲載。東京日日新聞は名前と写真入りで「報知新聞記者兼一行の従者」と報じた。また雑誌『風俗画報』の「米艦隊歓迎特集号」もその姿を紹介した[16]。この年、磯村は別の機会に同店を訪れた駐日大使の家族やアメリカの学生に取材し、小雑誌「みつこしタイムス」に外国人客のようすを載せた[17][18][19]

雑誌記事

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  • 磯村春子「ハート袋の編方」『少女の友』第1巻第3号、實業之日本社、1908年。 
  • 磯村春子「新案レース編方二種」『少女の友』第1巻第4号、實業之日本社、1908年。 
  • 磯村春子「新案夏シヨール編方」『少女の友』第1巻第5号、實業之日本社、1908年。 
  • 磯村春子「絹絲レース肩掛編方」『少女の友』第6号、實業之日本社、1908年。 
  • 磯村春子「面白き模樣編み方二種」『少女の友』第1巻第8号、實業之日本社、1908年。 
  • 磯村春子「片假名の編み方」『少女の友』第1巻第9号、實業之日本社、1908年。 
  • 磯村春子「あみもの假名の編み方」『少女の友』第1巻第10号、實業之日本社、1908年。 
  • 磯村春子「露大使令息令孃の三越觀 (上)」『みつこしタイムス』第6巻、三越呉服店、1908年、10-11頁。 
  • 磯村春子「露大使令息合孃の三越觀 (下)」『みつこしタイムス』第7巻、三越呉服店、1908年、14頁。 
  • 磯村春子「米國女學生と三越」『みつこしタイムス』第9巻、三越呉服店、1908年、12-13頁。 
  • 磯村春子「毛糸シャツの編み方」『少女の友』第2巻第2号、實業之日本社、1909年。 
  • 磯村春子「子供股引の編み方」『少女の友』第2巻、實業之日本社、1909年。 
  • 磯村春子「新案オベラバックの編み方」『少女の友』第4巻第5号、實業之日本社、1911年。 
  • 磯村春子「フード附ケープの編み方」『少女の友』第4巻第13号、實業之日本社、1911年。 

著書

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  • 磯村春子『最新家庭のあみもの』實業之日本社、1912年。OCLC 835399627 
  • 磯村春子『今の女』文明堂、1913年。 NCID BN0595075X 
磯村春子『今の女』文明堂、1970年http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I067779007-00  1913年刊行分の復刻
磯村春子 著、磯村英一 編『今の女』雄山閣出版〈資料・明治女性誌〉、1984年。 NCID BN01457266  文明堂 (1913年初版、1970年複製刊) の再複製

注釈

[編集]
  1. ^ アメリカのドイツ改革派教会ジャパンミッションとして日本に渡り、宣教を続けたウィリアム・E・ホーイほかは女子教育を根付かせようと本国の外国伝道局に訴え、教師としてエリザベス・R・プールボーとメアリー・B・オールト(後のウィリアム・ホーイ夫人、1886年 (明治19) 年7月に来日して1888(明治21)年 6月まで同校教師) の派遣を受けた。またアメリカでドイツ改革派に属する教会は寄付金をつのり、学校の校舎と寄宿舎の建築費用を支給、また生徒への奨学金も設置[5][6]
  2. ^ エリザベス・R・プールボー宣教師は宮城女学校初代校長[6]、就任期間は来日した2ヵ月後の1886年 (明治19年) 9月から1888年 (明治21年) 6月まで聖書と英語を教えた。退任の年に妹のエマ・F・プールボーが来日して同校で1893年6月まで教えるとアメリカへ戻った。姉エリザベスは1899年 (明治32年) に帰国[7]
  3. ^ アメリカ政府は1908年3月に大西洋艦隊の世界周航計画を発表、駐米特命全権大使の高平〔註=小五郎〕はすぐに同艦隊の日本寄港を呼び掛けるよう東京へ進言し、同艦隊司令官スペリーが6月19日付の文書で示したようにオーストラリアとフィリピンを経由して半年後の10月に横浜に寄港する[13]
  4. ^ このときの一行が着物姿で写った写真が絵葉書として現存し、磯村春子もなかに加わっている[16]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d 磯村春子 とは - コトバンク(朝日日本歴史人物事典)
  2. ^ NHKアーカイブスカタログ―テレビ番組放送記録+番組小史 1953~2008
  3. ^ a b 館報「開港のひろば」 横浜開港資料館
  4. ^ a b 福島中央テレビ ふくしまの素顔No.40「磯村春子~『女』を先駆けたはね駒~」1997年08月31日(日) 放送
  5. ^ 天にみ栄え地に平和—宮城学院創立百二十五周年”. 宮城学院広報. 学校法人宮城学院. p. 2 (2011年9月30日). 2016年12月14日閲覧。
  6. ^ a b 宮城学院資料室運営委員会, ed. (2015-03-31), “資料紹介7—宮城学院宣教師・関係者資料”, 宮城学院資料室年報〈信・望・愛〉 20 (2014年度): p. 59, ISSN 1344-9710, https://www.mgu.ac.jp/home/agency/dataroom/document/nenpou20.pdf 2016年12月14日閲覧。 
  7. ^ 嶋田順好 (宮城学院学院長) (2016年3月31日). 宮城学院資料室運営委員会: “巻頭言”. 宮城学院資料室年報〈信・望・愛〉. p. 3. 2016年12月14日閲覧。
  8. ^ a b c 女もすなる飛行機 NTT出版Webマガジン -Web nttpub-
  9. ^ 宮城学院の歴史”. 学校法人宮城学院中学校高等学校. 2016年12月14日閲覧。
  10. ^ 学校沿革”. 学校法人宮城学院中学校高等学校 (2004年4月16日). 2003年3月時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年12月13日閲覧。
  11. ^ 同社には1897年(明治30年)、後に日本最初の婦人記者といわれる羽仁もと子が、校正係として入社していた。
  12. ^ a b 大正2年12月15日発行、磯村春子 (1912-12-15). “婦人記者の十年”. 今の女: 2-6. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/951262/139?tocOpened=1 2016年12月14日閲覧。. 
  13. ^ 松村正義「もう一人のポーツマス講和全権委員—高平小五郎・駐米公使」『外務省調査月報』第1号、外務省、2006年。 
  14. ^ “米國東航艦隊各艦長夫人の来朝、中に令嬢令息を携えたるもあり”. 標題:2. 太平洋ニ回航ノ米国大西洋艦隊ヲ帝国ニ招待ノ件/分割2 (外務省) (6): 18-26. (1908). https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/listPhoto?NO=6&DB_ID=G0000101EXTERNAL&ID=%24_ID&LANG=default&image_num=7&IS_STYLE=default&TYPE=JPEG&DL_TYPE=pdf&REFCODE=B07090416900&CN=1. 
  15. ^ JACAR(アジア歴史資料センター): “各国艦隊週航関係雑件/米国ノ部 第一巻(5-1-8-0-41_1_001)”. (外務省外交史料館). 2016年12月14日閲覧。
  16. ^ a b 伊藤泉美 (2008-10-29). “〈展示余話〉磯村春子-白船艦隊艦長夫人たちの接待役について”. 開港のひろば (バックナンバー) (横浜開港資料館) (102 (2008(平成20)年10月29日発行)). http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/102/03.html 2016年12月14日閲覧。. 
  17. ^ 磯村春子「露大使令息令孃の三越觀 (上)」『みつこしタイムス』第6巻、三越呉服店、1908年、10-11頁。 
  18. ^ 磯村春子「露大使令息合孃の三越觀 (下)」『みつこしタイムス』第7巻、三越呉服店、1908年、14頁。 
  19. ^ 磯村春子「米國女學生」『みつこしタイムス』第9巻、三越呉服店、1908年、12-13頁。 

関連文献

[編集]
  • 書誌研究懇話会編、朝倉治彦 編者代表 編『「風俗画報」目次総覧』槌田満文解說、龍溪書舎、1980年。 NCID BN03546695 
  • 磯村英一『実録はね駒(コンマ)—〈女〉を先駆けた磯村春子(オリンチヤン)の生涯』開隆堂出版、1986年。 NCID BN10047684OCLC 673017912 
  • 「『はね駒』のモデル・磯村春子さんの長男 磯村英一さんが明かす感動秘話」『週刊平凡』第28巻第19号、マガジンハウス、1986年、127頁。 
  • 横山麗子『天まではねろ—磯村春子の生涯と信仰』いのちのことば社、1988年。OCLC 674705211 
  • 『磯村春子』日本図書センター、1274頁。  備考:M2004110917585243392
  • 女性史研究会 編『近代日本女性文献史料総覧』 2巻、大空社、1998年。OCLC 835047863 
  • 이성근; 이성근지음 Sŏng-gŭn Yi (1999) (朝鮮語). 한일양국초대여기자의삶 : 최은희와이소무라하루코 [Han-Il yangguk ch'odae yŏgija ŭi sam : Ch'oe Ŭn-hŭi wa Isomura Haruk'o]. Wau: 와우. OCLC 43899356 
  • 谷沢永一(著)、學燈社(編)「今の女〈磯村春子『今の女』〉〈塚田霊翠『男女 春草紙』〉」『國文學 : 解釈と教材の研究』第53巻第2号、學燈社、2008年、184-187頁。 
  • JapanKnowledge Lib, ed. (2015年10月16日). "いそむら-はるこ【磯村春子】". 日本人名大辞典. NetAdvance Inc.
  • 菅野俊之(著)、福島民報社(編)「磯村春子」『ふくしま人』第1巻、福島民報社、2015年、OCLC 945879196 
  • 「はね駒(コンマ)」、日本放送出版協会、1986年。 
  • NHKドラマ番組部 編『朝ドラの55年 : 全93作品完全保存版—連続テレビ小説1961年から2015年』NHK出版、2015年、163頁。 
  • 軽部恵子(著)、桃山学院大学社会学会(編)「書評 NHKドラマ番組部監修、NHK出版編〈朝ドラの55年 : 全93作品完全保存版〉」『桃山学院大学社会学論集』第49巻2 (鈴木富久教授退任記念号)、桃山学院大学、2016年6月20日、195-198頁、OCLC 6005462631