神保長治
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 寛永18年(1641年) |
死没 | 正徳5年10月8日(1715年11月3日) |
別名 | 新五左衛門、長次 |
幕府 | 江戸幕府旗本 |
氏族 | 惟宗姓神保氏 |
父母 |
父:荻原友村、母:祖父江長之女 養父:神保長賢 |
妻 | 神保長賢養女 |
子 | 長澄、元次、女(横地安孝室) |
生涯
[編集]旗本荻原友村の六男で、旗本神保長賢の養女を娶り、養子になる。延宝4年(1676年)、将軍徳川家綱にはじめて御目見する。延宝6年(1678年)に書院番となり、延宝8年(1680年)に蔵米300俵を支給される。元禄元年(1688年)に桐間番にうつり、すぐに小納戸に昇進する。元禄2年(1689年)に日光山の検分を命じられる。元禄5年(1692年)に新恩300俵を賜り、元禄7年(1694年)にまた300俵を加増される。元禄10年(1697年)、蔵米を領地に代えられ武蔵国多摩郡内において900石を賜る。正徳2年(1712年)に佐渡奉行となる。
正徳5年(1715年)10月8日佐渡奉行在任中に江戸で病没、享年75。法名は覺往。家督は長男の長澄が相続した。
人物・逸話
[編集]- 長治の家系は神保相茂の系統(紀伊神保氏)や神保氏張の系統とは別系統である。『寛政重修諸家譜』によれば、系譜は 山城守─弾正忠─周防守八郎─対馬守八郎─政長─長利─重利─長賢 と続く。さらに呈譜(神保家が幕府に提出した系図)では周防守八郎と対馬守八郎の間に惣右衛門長誠がいて、これが神保長誠であり、その子の対馬守八郎が長重であるとしているものの、長誠が応仁年中の人であることなどを理由にこの家説を「とらず」としている。
- 系図上は甲賀流忍術の中心となった「甲賀二十一家」の流れを汲む。
- 長治が神田小川町に屋敷を構えたことから、そこを通っていた小路が「神保小路」と呼ばれるようになり、明治に入って辺り一帯が神保町と名付けられることになった。
参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第千百八十二
- 『越佐人物誌』牧田利平編 野島出版 昭和47年 )