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神保長治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
神保長治
時代 江戸時代
生誕 寛永18年(1641年
死没 正徳5年10月8日1715年11月3日
別名 新五左衛門、長次
幕府 江戸幕府旗本
氏族 惟宗姓神保氏
父母 父:荻原友村、母:祖父江長之
養父:神保長賢
神保長賢養女
長澄元次、女(横地安孝室)
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神保 長治(じんぼう ながはる)は、江戸時代旗本

生涯

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旗本荻原友村の六男で、旗本神保長賢の養女を娶り、養子になる。延宝4年(1676年)、将軍徳川家綱にはじめて御目見する。延宝6年(1678年)に書院番となり、延宝8年(1680年)に蔵米300俵を支給される。元禄元年(1688年)に桐間番にうつり、すぐに小納戸に昇進する。元禄2年(1689年)に日光山の検分を命じられる。元禄5年(1692年)に新恩300俵を賜り、元禄7年(1694年)にまた300俵を加増される。元禄10年(1697年)、蔵米を領地に代えられ武蔵国多摩郡内において900石を賜る。正徳2年(1712年)に佐渡奉行となる。

正徳5年(1715年)10月8日佐渡奉行在任中に江戸で病没、享年75。法名は覺往。家督は長男の長澄が相続した。

人物・逸話

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  • 長治の家系は神保相茂の系統(紀伊神保氏)や神保氏張の系統とは別系統である。『寛政重修諸家譜』によれば、系譜は 山城守─弾正忠─周防守八郎─対馬守八郎─政長─長利─重利─長賢 と続く。さらに呈譜(神保家が幕府に提出した系図)では周防守八郎と対馬守八郎の間に惣右衛門長誠がいて、これが神保長誠であり、その子の対馬守八郎が長重であるとしているものの、長誠が応仁年中の人であることなどを理由にこの家説を「とらず」としている。
  • 系図上は甲賀流忍術の中心となった「甲賀二十一家」の流れを汲む。
  • 長治が神田小川町に屋敷を構えたことから、そこを通っていた小路が「神保小路」と呼ばれるようになり、明治に入って辺り一帯が神保町と名付けられることになった。

参考文献

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  • 寛政重修諸家譜』巻第千百八十二
  • 『越佐人物誌』牧田利平編 野島出版 昭和47年 )