神島二郎
神島 二郎(かみしま じろう、1918年4月18日 - 1998年4月5日)は、日本の政治学者、日本政治思想史家。立教大学名誉教授。
東京市四谷区出身。丸山眞男と柳田國男に師事し、両者の業績(丸山政治学と柳田民俗学)を架橋した「神島学」を創出したと言われる[1]。戦争に敗れた衝撃から、近代日本の歩んだ道筋を追究した。神島が提唱した「第二のムラ」という概念は近代日本史を解くキーワードの一つと評価されている。
略歴
[編集]- 東京市四谷区四谷左門町(現・東京都新宿区左門町)生まれ
- 砧小学校、国士舘中学校卒
- 1942年第一高等学校文科乙類卒、東京帝国大学法学部政治学科入学
- 1943年4-12月 東部第六部隊
- 1944年1-8月 仙台予備士官学校
- 1944年12月-1945年9月 フィリピン方面軍特別情報部
- 1946年1月 復員
- 1947年 東京大学(旧制)法学部卒、大学院特別研究生
- 1949年 修了
- 1950年 国立国会図書館嘱託、主事、調査員(-1954年)
- 1954年 明治大学短期大学講師
- 1958年 立教大学嘱託
- 1959年 立教大学法学部教授
- 1961年 「近代日本の精神構造」で(法学博士(東京大学)の学位を取得→「Category:法学博士取得者」を参照
- 1968年 丸山眞男の媒酌で結婚
- 1973年 立教大学法学部長(-1975年)
- 1980年 日本政治学会理事長(-1982年)
- 1984年 立教大学を定年退職、同名誉教授、立正大学教授
- 1986年 立正大学熊谷図書館長
- 1989年 立正大学定年退任
- 1998年 脳梗塞のため死去[2]
主な著作
[編集]- 『近代日本の精神構造』岩波書店 1961年
- 『結婚観の変遷-日本文化研究第9巻』新潮社、1961年、後に増補し『日本人の結婚観』と改題。講談社学術文庫など
- 『文明の考現学 <原日本>を求めて』東京大学出版会 1971年、新装版2013年
- 『常民の政治学』伝統と現代社 1972年、 後に講談社学術文庫
- 『国家目標の発見』中公叢書 1972年
- 『日本人の発想』講談社現代新書 1975年、後に講談社学術文庫(1989年)
- 『政治の世界-一政治学者の模索』朝日選書 1977年
- 『人心の政治学』評論社 1977年
- 『政治をみる眼』NHKブックス 1979年
- 『日常性の政治学 身近に自立の拠点を求めて』筑摩書房 1982年
- 『磁場の政治学―政治を動かすもの』岩波書店 1982年
- 『転換期日本の底流』中公叢書 1990年
第二のムラ
[編集]『近代日本の精神構造』は、丸山の天皇制ファシズム批判と柳田の民俗学の成果を生かし、近代日本全体を貫いた思想・行動の原理を明らかにしようとした労作。この中では「第二のムラ」の概念を提唱しているが、これは村落共同体(本来のムラ=第一のムラ)の原理にならった擬似的な共同体であり、具体的には藩閥(例:長州閥)、学閥(例:東大閥)などを指す。第一のムラは農業生産を基盤とし、祭りを中心にした秩序があるが、第二のムラに生産的な基盤はなく、同郷・同窓などのノスタルジーを基にした結合である。近代日本では社会の指導者層は藩閥や学閥などの「第二のムラ」を秩序原理としており、健全な市民社会が育たなかった。一方、「出世民主主義」が社会を覆い、有為な人材の多くが都会へ出てしまうと、実質的に日本を支えていた村落共同体は崩壊していった。こうした状況で、恐慌や国際情勢の悪化に対応することが要請されると、もはや秩序を支えるものは天皇制以外にはなかった、としてファシズムから敗戦に至る日本の悲劇を語っている。家永三郎は書評の中で、「本文より注が多い」「造語が多すぎる」と感想を述べるが、内容は全く理解できなかったと告白している(『思想』1961年8月)。
故神島二郎教授旧蔵書
[編集]立教大学に所蔵される神島二郎の旧蔵資料で、1731冊からなる蔵書。コレクションとしてのまとまりで保管されておらず、一般図書は他の蔵書とともに配架されている。所蔵リストは立教大学図書館閲覧課で確認することができる[3]。
その他
[編集]神島は晩婚で、結婚したのは『日本人の結婚観』をまとめた後である。