禁野車塚古墳
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禁野車塚古墳 | |
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墳丘(左に前方部、右奥に後円部) | |
所在地 | 大阪府枚方市宮之阪5丁目381-3ほか |
位置 | 北緯34度48分39.23秒 東経135度39分25.00秒 / 北緯34.8108972度 東経135.6569444度座標: 北緯34度48分39.23秒 東経135度39分25.00秒 / 北緯34.8108972度 東経135.6569444度 |
形状 | 前方後円墳 |
規模 | 墳丘長120m |
埋葬施設 | (推定)竪穴式石室 |
出土品 | 埴輪 |
築造時期 | 4世紀前半 |
史跡 | 国の史跡「禁野車塚古墳」 |
特記事項 | 箸墓古墳(奈良県桜井市)の相似形 |
地図 |
禁野車塚古墳(きんやくるまづかこふん)は、大阪府枚方市宮之阪にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている。
概要
[編集]大阪府北部の淀川左岸、天野川右岸の低位段丘上に築造された大型前方後円墳である[1]。1970年(昭和45年)以降に発掘調査が実施されている[2]。
墳形は前方部が「バチ形」に開く前方後円形で、墳丘主軸を東西方向として前方部を西方向に向ける。墳丘は2段築成[1]。墳丘外表では葺石・埴輪が認められる[3]。埋葬施設は明らかでないが、後円部上で板石が散乱することから、竪穴式石室の存在が推定される[3]。副葬品は詳らかでない。
この禁野車塚古墳は、古墳時代前期前半の4世紀前半[1](または4世紀中葉[2])頃の築造と推定される。大阪府内では最古級の古墳ともされるほか[2]、北河内地域では牧野車塚古墳(枚方市車塚、4世紀後半)とともに淀川流域の交通と関わった有力な大型古墳として知られ、牧野車塚古墳の先行首長墓に位置づけられる。
古墳域は1972年(昭和47年)に国の史跡に指定された[4]。現在では史跡公園として公開されている。
遺跡歴
[編集]- 江戸時代、『河内名所図会』に記述。
- 1966年(昭和41年)、墳丘測量調査[2]。
- 1970年(昭和45年)、範囲確認調査[2]。
- 1972年(昭和47年)3月22日、国の史跡に指定[4]。
- 2006年(平成18年)、後円部南東側の範囲確認調査(枚方市教育委員会、2007年に報告書刊行)[2]。
- 2007年(平成19年)7月26日、史跡範囲の追加指定[4]。
- 2008-2009年度(平成20-21年度)、墳丘測量調査(京都橘大学、2009・2010年に報告書刊行)[5][6]。
墳丘
[編集]- 墳丘長:120メートル
- 後円部 - 2段築成。
- 直径:63メートル
- 前方部 - 2段築成。
- 幅:55メートル
墳形は前方部が「バチ形」に開く前方後円形である点、墳丘の後円部からくびれ部にかけてスロープが存在する点で、箸墓古墳(奈良県桜井市)との類似が指摘される。
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前方部から後円部を望む
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後円部から前方部を望む
文化財
[編集]国の史跡
[編集]- 禁野車塚古墳 - 1972年(昭和47年)3月22日指定、2007年(平成19年)7月26日に史跡範囲の追加指定[4]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 史跡説明板(枚方市教育委員会、2008年設置)
- 京都橘大学発行
- 『牧野車塚古墳・禁野車塚古墳・宮道古墳・大宅廃寺瓦窯跡(京都橘大学文化財調査報告2008)』京都橘大学文学部、2009年。 - リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」。
- 『牧野車塚古墳・禁野車塚古墳・向山古墳・大宅廃寺瓦窯跡・山科本願寺跡(京都橘大学文化財調査報告2009)』京都橘大学文学部、2010年。 - リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」。
- 事典類
関連文献
[編集](記事執筆に使用していない関連文献)
- 『禁野車塚古墳周濠・鷹塚山遺跡範囲確認・特別史跡百済寺跡調査概要報告』禁野車塚・鷹塚山・百済寺跡遺跡調査団、1971年。
- 『史跡禁野車塚古墳 -平成18年度範囲確認調査概要-(枚方市文化財調査報告第52集)』枚方市教育委員会、2007年。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 禁野車塚古墳 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- 枚方市内の文化財 > 禁野車塚古墳 - 枚方市ホームページ