福井シネマ
福井シネマ FUKUI CINEMA | |
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福井シネマ1・2(2016年撮影) | |
情報 | |
正式名称 | 福井シネマ |
旧名称 | 松竹館、日活館、大衆館 |
完成 | 1977年8月13日 |
開館 | 1992年9月 |
閉館 | 2018年9月9日 |
最終公演 | 『羊と鋼の森』(橋本大二郎監督) |
収容人員 | (4スクリーン)753人 |
設備 | ドルビーデジタル5.1ch、DLP |
用途 | 映画上映 |
運営 | 加賀産業 |
所在地 |
〒910-0023 福井県福井市順化1-2-1 |
最寄駅 | 福井鉄道福武線福井城址大名町駅 |
最寄バス停 | 京福バス「福井銀行本店前[注釈 1]」停留所 |
福井シネマ(ふくいシネマ)は、福井県福井市順化にあった映画館。
歴史
[編集]サイレント時代
[編集]福井で最初に映画が上映されたのはいつのことであったかはっきりしないが、日露戦争(1904年-1905年)後の時期には既に芝居上演用の劇場で映画の興行が行われた記録が見られる[1]。片町にあった劇場の加賀屋座でもこの時期から映画の興行が行われており、1910年(明治43年)には福井新聞に割引券を付ける試みも行われた[2]。大正に入ると常設の映画館に転じる劇場も出たが、いずれも短期間で廃業した[3][注釈 2]。
本格的な常設館が開設されたのは大正も後半に入ってからのことで、まず1919年(大正8年)年末に福井劇場が開館した[8][9]。続いて加賀屋座が松竹キネマと契約し[10]、1921年(大正10年)に加賀屋座の南隣に開館したのが、福井シネマの前身となった松竹館である。しかしこの映画館開設は、場所が順化尋常小学校に近かったことから議論を呼んだ。
当時、福井県は「劇場寄席取締規則」により、学校や病院の周囲に劇場や寄席を開設することを禁じていた。加賀屋座は映画館の新設ではなく、劇場改築に伴う映画館の附設であるとして規則の適用を免れていた。しかし1917年(大正6年)に積雪で崩壊した昇平座がこの規則により修復を認められなかった例もあり、昇平座の旧座主は加賀屋座の動きに反対した。一方、以前から順化小は歓楽街に囲まれた環境や校地の狭さが問題視されており、学校移転を求める意見も出された[11]。加賀屋座が政友会支持であったことから論争は政治的立場も絡み、事態は紛糾した。結局市は学校移転の費用が出せず、県が「劇場寄席取締規則」を改正することによりこの問題の解決を図った[12][13]。昇平座とも妥協が成立したが、今度は警察が完成した建物に設計と異なる点があると指摘し、建物の使用許可を出さないと主張した[14]。
このように曲折はあったものの、松竹館は1921年末に竣工式を迎え、1922年(大正11年)の正月公演では渡辺霞亭原作の『女の力』を上映した[15][注釈 3]。1921年末には中央館も開館し[注釈 4]、福井の常設館は大きく数を増やすことになった[16]。開館当初は無声映画の時代であり、松竹館にも複数の弁士が所属し、中には人力車で通う者もいた[17]。
1924年(大正13年)10月、松竹館は突如東亜キネマ系列に乗り換え、館名も「東亜キネマ」に変更した。改名後最初の上映作品はユナイテッド・アーティスツの『ロビン・フッド』であった[18][注釈 5]。この時代に上映した『影法師』(東亜キネマ、1925年)は阪東妻三郎出演作としては福井で初の上映となった[22]。1925年(大正14年)11月松竹館に戻った[23][24]。このころは日本映画の上映が主であったが、『少年ロビンソン』『忍術キートン』といった洋画も上映していた。
トーキー時代
[編集]1931年(昭和6年)、前年まで福井劇場が担当していた日活の映画をこの年から上映することになり、館名も日活館と改めた。市内には前年の1930年(昭和5年)11月に新たに松竹座が開館し[25][3][26][注釈 6]、常設館の競争が激化していた[28]。新興の松竹座がインテリ階級を集めたのに対し、日活館には比較的低級な階級が集まった[29]。
この時期はトーキーが普及を始めた時期で、福井でも1929年(昭和4年)7月に加賀屋座でトーキー興行が行われた[30][31]。こうした状況を背景に、弁士削減を図る館主と従業員の衝突が福井の各館で見られるようになり、1931年(昭和6年)10月には日活館でも弁士の解雇をめぐる争議が起きた[32][29]。争議の中、11月には松竹座では国産初のトーキー作品『マダムと女房』が上映され[29][33]、徐々にトーキー転換が進んだ。
1931年(昭和6年)12月には、激化する競争に耐えかねた常設4館が福井映画業組合を組織して料金や演目の調整を図ることになった。この措置の一環で日活館は大衆館と改称、日活映画の上映をやめることになった[34][注釈 7]。日活館改め大衆館は、1936年(昭和11年)に阿部九州男、羅門光三郎、嵐寛寿郎、水島道太郎らの作品にランドルフ・スコットや漫画なども加えた9本立てで興行を行った[36]。
倒壊
[編集]1939年4月、加賀屋座は東宝と契約し[38]、加賀屋座の南隣に福井東宝を開館した[26][20][注釈 9]。1940年(昭和15年)2月には大衆館が加賀屋座の北隣で再開館した[注釈 10]。加賀屋座も映画上映を行うことがあり、1940年末には一部を椅子席に改造した[41][注釈 11]。こうしてこの一角に映画上映施設が立ち並ぶ状況となったが、その後戦争の激化に伴い統制が強まり、決戦非常措置要綱の実施に伴い大衆館は1945年(昭和20年)2月に休館となった[44]。さらに1945年(昭和20年)7月の福井空襲で市内の映画館は全滅した[44]。
戦後、1946年(昭和21年)2月に再開館し[45][46][注釈 12]、この年には運営会社として加賀産業が設立された[47][注釈 13]。福井東宝も再開館したが、加賀屋座は再開されず、跡地は国際劇場という別の映画館となった[44][注釈 14]。1947年(昭和22年)には大衆館が本町通りに移転した[50][注釈 15]。1948年(昭和23年)6月の福井地震で建物は全焼、多数の死傷者を出した[53][54]。当日大衆館にいた人物の回想によれば、地震発生とともに建物は南の方に向かって倒れ、落下してきた梁に打たれた客は死亡、他の客は破れ目から脱出したという[55][注釈 16]。
再建
[編集]震災後、大衆館は1948年(昭和23年)11月に再開館し[注釈 17]、片町に残っていた東宝も1949年(昭和24年)8月に大衆館の北側で再建された[62][63]。さらに1950年(昭和25年)2月には東宝の北側に日本劇場(メトロ劇場の前身)が開館し[62]、この地区に映画館が並ぶ形となった。この頃加賀産業は、福井市で大衆館・東宝の2館を経営するほか、鯖江・武生でも映画館を経営し、さらに1952年9月には富山市で買収した既存館を改装、富山大衆館の名で開館するなど[64]、規模を拡大していった。大衆館は福井東宝と合わせて大映・東映・東宝・新東宝の4社の作品を上映していたが[65][注釈 18]、大衆館はその後東映専門となり、「福井東映」の名称を併用するようになった[注釈 19]。
1959年(昭和34年)には改装工事を行い、鉄筋コンクリート2階建て、冷暖房完備の新館が6月に開館した[71]。開館行事には当時東映の看板俳優であった片岡千恵蔵が来館、福井市長に続いて壇上に上がり、「単に館主と俳優の間柄ではなく、北陸路にも兄がいると思われるほどお世話になった」と祝辞を述べた[72][73]。これ以降は大衆館の名称は用いられなくなった[注釈 20]。1960年7月には隣接する東宝も改装した[62][注釈 21]。
映画ビル開館
[編集]1977年には東映と東宝を交互に運営しながら改装工事を進め、8月13日、東宝、東映が入居する「映画ビル」が開館した[77]。この際本館には名商エンタープライズが運営する東映パラス、別館には東宝中部興行が運営する東宝洋画系のみゆき座が開館した。既に映画は低迷し、改装期を迎えた映画館はテナントを入れて収益を確保するのが一般的であるところ、加賀産業は映画館のみで新ビルを構成し、座席数は一度に400以上も増加した[78]。福井市出身の俳優・津田寛治は学生時代に映画ビルでアルバイトをしていたという[79]。しかし東映パラスは1992年2月に閉館、みゆき座も改装費用が出せず、1992年9月30日に閉館した[80]。
1992年9月、改装期間を経て福井東映が「シネマ1」、福井東宝が「シネマ2」として再開業した。1998年には従来の映画ビルの北隣に3階建てのニュー映画ビルを建設[81]、3月14日に「福井シネマ3・4」を新ビル内に開館した[82][83]。さらに2010年には「福井シネマ1」の2階席を座席配置を変え、パノラマ席を設けていた[84]。
しかし、その後は郊外のショッピングセンターに併設されたシネマコンプレックスに押されて入館者数が減少。2010年代ごろからは年間来館者数が7~8万人前後で推移していたという。このため2018年9月10日をもって営業を終了し、松竹館時代から通算して100年に及ぶ歴史の幕を閉じた[85]。最後の上映作品は福井市出身の宮下奈都原作『羊と鋼の森』(橋本大二郎監督)であった[85]。建物は直ちに取り壊され[86][87]、2019年7月に新ビルが着工した後、2020年10月に商業施設ビル「福井テラス」が竣工[88]。同ビル内に北國銀行福井支店が移転開業(2020年11月24日 - [89])し、現在に至る。
座席数
[編集]- シネマ1 :333
- シネマ2 :220
- シネマ3 :100
- シネマ4 :100
注釈
[編集]- ^ 閉館後に「東映前」から名称変更。
- ^ 一連の流れで加賀屋座も映画の常設館となった、と述べる文献や、加賀屋座が映画常設館となった後、松竹館に転じた[4]、とする文献もある。また福井劇場開館の翌年、1920年の『大阪朝日新聞』は、常設館1のほかに常設館同然に映画興行を行っている劇場が2、寄席が1あると述べており[5]、これが加賀屋座を指す可能性もある。また1917年発行の映画誌『活動之世界』は「全國活動常設館一覽」に加賀屋座を挙げており[6]、翌1918年の一覧ではさらに所属する弁士3名の名前が示されている[7]。
- ^ 1921年末に行ったのは竣工式だけなのか、年内に何らかの上映を行ったのかははっきりしない。『福井新聞百年史』は1922年1月の開館とし[9]、『福井県大百科事典』も開館を1922年としている。『福井映画史』(19ページ)『福井県労働運動史』は1923年の開館としている。
- ^ 1921年9月の開館とする文献が多い[9]。
- ^ 『松竹九十年史』掲載の年表には、大正13年(1924年)の項に「福井松竹館 直営廃止」の記述がある[19]。また館名についても揺れがあり、『新修 福井市史 Ⅱ』は松竹館改名後の館名は「東亜キネマ」だったとしている[20]。『福井新聞百年史』にも「東亜シネマ(元の松竹館)」の記述がある[21]。
- ^ 松竹座の後身にあたるテアトルサンクへの取材記事では1928年(昭和3年)に「映画興行「福井松竹座」を開始」とある[27]。
- ^ 協定成立の記事では大衆館への改名は23日付としているが、24日付の新聞には日活館名義で『血煙荒神山』『日本橋』『道玄坂奇談』といった日活映画の上映予定が発表されている[35]。
- ^ 撮影年代は『写真集 明治大正昭和 福井』の記載による。ただし写真に見える『蛮勇タルザン』が日本で初公開されたのは1934年であり、前編にあたる『無敵タルザン』は1934年10月に大衆館で上映されている。またこの写真と同じ建物は、1936年頃に附近で撮影された写真でも映画街の南端に写っており[37]、掲載の写真も大衆館が加賀屋座の南側にあった1939年以前の撮影である可能性がある。
- ^ 『稿本福井市史』は東宝の創立年月は1939年3月であるとしている[3]。
- ^ 大衆館の館名はこの時点から使われ始めたものだとする文献もあり[39][40]、大衆館の設立が1940年2月だとするものもある[3]。また東宝はもと大衆館があった場所に開館しており、1940年に再開館するまでの間、大衆館がどうなっていたのかは不明である。
- ^ 1939年4月15日には加賀屋座でクラーク・ゲーブル、マーナ・ロイ主演の映画『テスト・パイロット』が上映されていたが[42]、映写室にあったフィルムに引火して騒ぎとなった[43]。
- ^ 『福井県大百科事典』は1947年としている。
- ^ 『キネマ旬報』は加賀産業が株式組織となったのは1948年11月であるとしているが[48]、1947年発行の『福井縣經濟要覽』では既に株式会社として掲載されている[47]。
- ^ 戦後に再開館した福井東宝については言及が少ないが、震災当日に国際劇場で被災した福井新聞の記者が福井東宝は国際劇場の隣にあったと述べており[49]、空襲前と同じ場所で再開したものと思われる。
- ^ 移転は福井地震と同年(1948年)であるとする文献もある[51]。なお『新修 福井市史 Ⅱ』は移転先を「順化一丁目二」としているが、順化は住居表示制度の実施に伴い1967年から用いられている地名であり[52]、移転当時はこの地名は用いられていなかった。当時の地名では佐佳枝中町にあたる。
- ^ 地震による大衆館の被害についてはさまざまな記述があり、食い違いも多い。死者数について、『福井市史』は震災当時の福井新聞の報道を元に、大衆館の死者は13人としており[56]、中央防災会議の報告書も「大衆映画館」の被害として13人死亡と同じ数字をあげている[57]。『読売新聞』は29日午前8時時点で発掘された死体の数を40人[58]、『写真集 明治大正昭和 福井』は「数一〇〇人」としている[59]。
- ^ 1948年10月の『朝日新聞』福井版掲載広告に「おまたせ致しました! 愈々! 11月1日ヨリ 大衆舘 大映・東宝封切 復興開舘」の文言が見られる[60]。なお『新修 福井市史 Ⅱ』はこの直前、1948年10月26日に福井東映大衆館に改名したとしている[61]。
- ^ 大衆館が東映専門となるまでの間、どの会社の映画を上映していたのかははっきりしない。『新修 福井市史 Ⅱ』は1951年頃から半年間大映と東映を併映した後、東映専門館となったとし[66]、1954年の『キネマ旬報』は大衆館が大映・東映、福井東宝は東宝・新東宝の上映館であったとする[48]。一方、同誌の1955年の取材記事に掲載された大衆館の写真には「大映 新東宝 封切」とあるのが読み取れる[65]。また、東映専門に移行する直前に上映していた『怪猫五十三次』『魔の花嫁衣裳』[67]は大映の、『明治天皇と日露大戦争』[68]は新東宝の作品である。
- ^ 1957年6月の『福井新聞』掲載広告には「東映封切専門館 第一回披露番組」[69]「愈々本5日より! 皆様の大衆舘が東映専門舘となりました!」[70]の文言が見られ、これ以降の広告は「福井東映」と「大衆館」の名が併記されている。また時事通信社編『映画年鑑』の1957年版では大衆館の名で、1958年版では1957年10月1日現在の情報として福井東映の名で掲載されている。
- ^ 『福井新聞』の「本日の映画案内」は改装期間中も大衆館の欄は残り、休館している旨が注記されていたが、新装開館前の6月15日付朝刊を最後に大衆館の表記をやめ[74]、同日付の夕刊から福井東映としている[75]。
- ^ 『新修 福井市史 Ⅱ』は東宝が1960年7月12日に「装いも新たに再出発」したと述べているが、1960年7月の『福井新聞』には「福井東宝 堂々明13日開舘決定!」と題した広告があり[76]、新装開館は13日であったと思われる。
出典
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参考文献
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- 福井市(編集)『福井市史 通史編3 近現代』福井市、2004年。
- 福井市史編さん委員会(編さん)『新修 福井市史 Ⅰ』福井市、1970年。
- 福井市史編さん委員会(編さん)「演劇と映画」『新修 福井市史 Ⅱ』福井市、1976年、716-734ページ。
- 福井市役所編『稿本福井市史』歴史図書社、1973年。※1941年刊の複製。
- 『福井を伝えて一世紀――福井新聞百年史』福井新聞社社史編纂委員会、福井新聞社、2000年。
- 「特集 福井と映画」518-527ページ。
- 福井新聞社編集局編『生きているふくい昭和史』品川書店、1974年。※題号は奥付では『生きている昭和史』となっている。
- 舟沢茂樹・松原信之編『写真集 明治大正昭和 福井』国書刊行会〈ふるさとの想い出⑲〉、1979年。
- 前田佐久雄「映画館・劇場」『福井県大百科事典』福井新聞社百科事典刊行委員会編集、福井新聞社、1991年。
外部リンク
[編集]- 震災 No.1(福井市広報課写真帳、3ページと7ページに福井地震当時の写真が掲載されている)