福原銭太郎
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福原 銭太郎(ふくはら せんたろう、慶応3年2月24日[1](1867年3月29日) - 昭和13年(1938年)9月26日[1])は、日本の陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。三重県桑名町長、長島村長。
人物
[編集]伊勢国桑名郡長島村(現在の三重県桑名市)出身。士族・福原資英の長男として生まれ、1896年に家督を継ぐ[2]。1884年(明治17年)に陸軍士官学校(旧9期)に入学し、1887年(明治20年)に卒業[3]。同年7月[4]歩兵少尉に任官し、陸軍大学校(10期)で学び[5]、日清戦争に出征した[3]。陸軍士官学校教官、参謀本部部員、近衛師団参謀を歴任[3]。日露戦争時には第12師団高級参謀を務め[1]、その後は留守第12師団参謀長、歩兵第68連隊初代連隊長、臨時朝鮮派遣歩兵第1連隊長[6]、第16師団参謀長[6]、第26旅団長を歴任した[3]。1916年(大正5年)8月[6]、独立守備隊司令官に就任し[3]、在任中に鄭家屯事件の対応にあたった[1]。1918年(大正7年)7月24日、中将に昇進と同時に待命となり[6]、翌年1月15日[6]に予備役編入となった[3]。
1920年(大正9年)、桑名町長に選出され[3]、10年間在職した[1]。また1922年(大正11年)には三重県会議員に当選し、2期務めた[3]。その後、1931年(昭和6年)から1933年(昭和8年)まで長島村長を務めた[3]。
栄典
[編集]- 位階
- 1890年(明治23年)10月15日 - 正八位[7]
- 1905年(明治38年)4月7日 - 正六位[8]
- 1907年(明治40年)12月27日 - 従五位[9]
- 1913年(大正2年)1月30日 - 正五位[10]
- 1918年(大正7年)2月28日 - 従四位[11]
- 1919年(大正8年)2月14日 - 正四位[12]
- 勲章等
- 1920年(大正9年)11月1日 - 大正三年乃至九年戦役従軍記章[13]
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f 『遺徳顕彰録』pp.176-177
- ^ a b 福原錢太郞 (男性)『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ a b c d e f g h i 『人物月旦』pp.1-2
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』78頁。
- ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版、548頁。
- ^ a b c d e 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』80頁。
- ^ 『官報』第2193号「叙任及辞令」1890年10月20日。
- ^ 『官報』第6531号「叙任及辞令」1905年4月12日。
- ^ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
- ^ 『官報』第150号「叙任及辞令」1913年1月31日。
- ^ 『官報』第1671号「叙任及辞令」1918年3月1日。
- ^ 『官報』第1960号「叙任及辞令」1919年2月17日。
- ^ 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。