福岡秀猪
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人物情報 | |
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生誕 |
1871年11月2日(明治4年9月20日) 高知県 |
死没 | 1932年11月27日(61歳没) |
国籍 | 日本 |
出身校 |
イェール大学 ブリュッセル大学 |
配偶者 | 貞子(相良頼紹長女) |
両親 | 孝弟(父) |
子供 | 孝紹(長男)、孝儔(次男) |
学問 | |
研究分野 | 法学(国際法) |
研究機関 | 東京外国語学校 |
学位 | 法学修士(イェール大学・1892年) |
福岡 秀猪(ふくおか ひでい、1871年11月2日(明治4年9月20日) – 1932年(昭和7年)11月27日)は、明治・大正・昭和の法学者。福岡孝弟の二男。正三位勲三等子爵。
来歴
[編集]生い立ち
[編集]1871年11月2日(明治4年9月20日)、元高知藩権大参事・福岡孝弟の二男として高知県土佐郡高知城下に生まれる。
1887年(明治20年)アメリカ合衆国に留学し、初めワシントン・アンド・リー大学に学び、のちカンバーランド大学で法学を修めた。さらにイェール大学に入学するが、一時帰国する。1893年(同26年)、あらためてヨーロッパのブリュッセル大学へ留学し、政治学ならびに行政学を学んだ。法学修士と、政治学行政学博士の学位を得て帰国し、1900年(同33年)、東京外国語学校(現・東京外国語大学)の教授となり、国際法を講じた。
父の薨去に伴い1919年(大正8年)3月31日、子爵を襲爵した[1]。
のち学習院教課授業嘱託となり、また、憲兵練習所の国際法教授を務める。さらに、宮内省御用掛を歴任した。 1932年(昭和7年)11月27日薨去。享年62。
栄典
[編集]家族
[編集]- 父:福岡孝弟
脚注
[編集]- ^ a b c d e 『平成新修旧華族家系大成』下巻、434頁。
- ^ 『官報』第8424号「叙任及辞令」1911年7月21日。
- ^ 板垣退助の孫
- ^ 『板垣退助愛蔵品展』高知市立自由民権記念館編、2011年10月。5頁、『板垣退助二女軍の長男・宮地茂秋の結婚』「拝啓、愈御清康御起居候段、奉慶賀候。陳(のぶれ)ば、宮地茂秋事、此度子爵福岡秀猪娘(長女)同姓呉子と婚約相調(あいととの)ひ、去る廿一日、吉兆を以て結納相済(あいすまし)候に付、此段御吹聴申上度(もうしあげたく)、得貴意候哉、敬具。大正九年十月廿五日、板垣絹子、徳弘馬域郎様」(『徳弘馬域郎宛板垣絹子書簡』高知市立自由民権記念館寄託徳弘馬域郎関係史料)
- ^ 宮地家墓所の「宮地呉子」墓碑銘。(所在地:東京青山霊園(1ロ-21-1)※後藤象二郎の墓の向い)
- ^ 実吉安純の八男
参考文献
[編集]- 『法制経済要論』 (請求記号: 91-99)
- 『大人名事典』
- 『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ、2004年。
- 『日本人名大辞典』
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 福岡孝弟 |
子爵 福岡(孝弟)家第2代 1919年 - 1932年 |
次代 福岡孝紹 |