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福岡秀猪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
福岡 秀猪
人物情報
生誕 (1871-11-02) 1871年11月2日明治4年9月20日
高知県
死没 (1932-11-27) 1932年11月27日(61歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 イェール大学
ブリュッセル大学
配偶者 貞子(相良頼紹長女)
両親 孝弟(父)
子供 孝紹(長男)、孝儔(次男)
学問
研究分野 法学国際法
研究機関 東京外国語学校
学位 法学修士(イェール大学・1892年)
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福岡 秀猪(ふくおか ひでい、1871年11月2日明治4年9月20日) – 1932年昭和7年)11月27日)は、明治大正昭和法学者福岡孝弟の二男。正三位勲三等子爵

来歴

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生い立ち

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1871年11月2日(明治4年9月20日)、元高知藩権大参事・福岡孝弟の二男として高知県土佐郡高知城下に生まれる。

1887年明治20年)アメリカ合衆国に留学し、初めワシントン・アンド・リー大学に学び、のちカンバーランド大学英語版で法学を修めた。さらにイェール大学に入学するが、一時帰国する。1893年(同26年)、あらためてヨーロッパブリュッセル大学へ留学し、政治学ならびに行政学を学んだ。法学修士と、政治学行政学博士の学位を得て帰国し、1900年(同33年)、東京外国語学校(現・東京外国語大学)の教授となり、国際法を講じた。

父の薨去に伴い1919年大正8年)3月31日、子爵を襲爵した[1]

のち学習院教課授業嘱託となり、また、憲兵練習所の国際法教授を務める。さらに、宮内省御用掛を歴任した。 1932年(昭和7年)11月27日薨去。享年62。

栄典

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家族

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  • 父:福岡孝弟
    • 本人:福岡秀猪
    • 妻:子爵相良頼紹長女・貞子(1877年 - 1948年[1]
      • 長男:福岡孝紹(1902年 - 1959年[1])子爵[1]・法学士
      • 二男:福岡孝儔(1914年[1] - )
      • 長女:実業家・宮地茂秋[3]の妻・呉子(1896年 - 1944年)[4][5]
      • 二女:法学士・永田鉄夫の妻・斐子(1898年 - ?)
      • 三女:瓜生正の妻・能子(1900年 - ?)
      • 四女:実吉金郎[6]の妻・紅子(1904年 - ?)
      • 五女:福岡文子(1911年 - ?)

脚注

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  1. ^ a b c d e 『平成新修旧華族家系大成』下巻、434頁。
  2. ^ 『官報』第8424号「叙任及辞令」1911年7月21日。
  3. ^ 板垣退助の孫
  4. ^ 『板垣退助愛蔵品展』高知市立自由民権記念館編、2011年10月。5頁、『板垣退助二女軍の長男・宮地茂秋の結婚』「拝啓、愈御清康御起居候段、奉慶賀候。陳(のぶれ)ば、宮地茂秋事、此度子爵福岡秀猪娘(長女)同姓呉子と婚約相調(あいととの)ひ、去る廿一日、吉兆を以て結納相済(あいすまし)候に付、此段御吹聴申上度(もうしあげたく)、得貴意候哉、敬具。大正九年十月廿五日、板垣絹子、徳弘馬域郎様」(『徳弘馬域郎宛板垣絹子書簡』高知市立自由民権記念館寄託徳弘馬域郎関係史料)
  5. ^ 宮地家墓所の「宮地呉子」墓碑銘。(所在地:東京青山霊園(1ロ-21-1)※後藤象二郎の墓の向い)
  6. ^ 実吉安純の八男

参考文献

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  • 『法制経済要論』 (請求記号: 91-99)
  • 『大人名事典』
  • 『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ、2004年。
  • 『日本人名大辞典』
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
日本の爵位
先代
福岡孝弟
子爵
福岡(孝弟)家第2代
1919年 - 1932年
次代
福岡孝紹